(1)東京大空襲の私の体験
明治の大水害・関東大震災・東京大空襲と続いた三つの大災害のうち、唯一私が体験した東京大空襲について、両親や先輩諸氏から聞かされた話も交え、調べたことを紹介します。
昭和16~20年(1941〜45)、日本とアメリカ(米国)との戦争がありました。「大東亜戦争」です。東亜とは東アジアのことです。アメリカでは「太平洋戦争」と言っています。終戦以後は、日本でも「太平洋戦争」と言っています。同じ時期にヨーロッパでもドイツ・イタリアと連合国軍との戦争がありました。太平洋戦争とこの戦争を合わせて「第二次世界大戦」と言います。
「東京大空襲」は、日本が敗色濃くなった昭和20年(1945)3月10日未明にありました。私もこの空襲に遭遇しました。終戦5か月前のことでした。
私はこの時、まだ3歳7か月の幼児でしたので、わずかな記憶しかありません。そこで、私が強烈に記憶していることと、後に母たちから聞かされたことを交えて、その時の様子を紹介します。
私の家族は、両親・祖父母・1歳4か月の弟と私の六人家族でした。父は、召集され1年程前に出征(兵隊に赴く)していました。空襲があった日の前日、3月9日の夜、祖父は町内の警防団員として出かけており、家には祖母・母・弟・私の4人だけでした。深夜近くに一度、米軍の哨戒機が飛来、翌10日の午前0時過ぎ(*1)に、沢山の米軍爆撃機「B-29」が墨東地区上空に飛来しました。私たち家族四人は、母に促され急いで、裏庭の防空壕に逃げ込みました。防空壕とは、庭に穴を掘って板などで覆い、その上に土を盛って造った身を守るための簡易避難場所です。
B-29は、焼夷弾(敵陣の建物等を焼く爆弾)をバラバラと投下して行きます。当時の日本家屋は、殆んど木造建築でした。そのため、焼夷弾によりあちこちで火災が発生ます。火の勢いはどんどん増していきます。「火が迫っているぞ〜 早く逃げろ!」外にいる人の大声で、私たち家族4人は防空頭巾(現在は「防災頭巾」と呼んでいる)をかぶり防空壕を出ました。母は弟を背負い、弟の僅かな身の回り品を持ち、片膝が悪かった祖母と私の手をひいて防空壕をあとにしました。
焼夷弾は赤・黄・緑色の閃光を伴って落下し、私の目にはまるで花火であるかのように映っていました。3月とはいえ気温は低く、冷たい北風が吹き、体は凍(こご)えるように冷えています。
火災は益々大きくなり、轟音を伴って巨大な竜巻の様に勢いよく上昇していく「火災旋風」があちこちでおこりました。私は、寒さと恐ろしさで体中をガタガタ震えさせていました。私たちは燃え盛る火の中を行くと「こっちは危ない、だめだ!」とあちこちでの怒号です。右往左往しながら一晩中過ごしました。夜明け前には、燃えるものが尽きたために、火災は徐々に収まりました。町中がまだ煙で燻(くすぶ)っている中を 私たちは我が家に戻りました。我が家も全てが焼け落ちて、夕べ家族4人で避難していた防空壕は、潰れて煙が上っていました。私たち家族は奇跡的に全員の命が助かりました。
私たちは、いつ・どこで命を落としても、おかしくない状況だったのです。今思い出しても身の毛がよだつ思いがします。
当時、空襲に備えて行われていた「町内の消火訓練」は、全く役に立たたず、活躍すると思われていた手漕ぎの放水ポンプや消防自動車が焼けただれていました。
(2)言問橋の惨状
図1は、空襲時の言問橋及び隅田川の惨状を描いた絵です。長じて画家になった狩野光男さん(*2)が、13歳の時に目にした当時を思い起こして描きました(すみだ郷土文化資料館蔵)。
墨田区側から橋を渡って逃げる人たちと、逆に台東区側から墨田区側に向かう人たちが言問橋の上でぶつかり合い、身動きできない状態になりました。しかも、みんな荷物を持っています。中には荷車(リヤカーや大八車)で大きな荷物を運んでいる人もいました。橋の上にいた人たちは乾燥し切った衣類や荷物に火が付き、炎が橋の上を走る様に燃えたそうです。
更に、熱さに耐えることができず、衣類に火が付いたまま橋の上から川に飛び込んだ人たちがたくさんいました。その多くの人たちは溺死してしまいした。ここだけで、一夜のうちに5千人余の人たちが死んでしまいました。
写真1は、言問橋の親柱で、8基あるうちのひとつを最近撮影しました。皆さんはよく目にしていることと思います。この親柱は、真っ白い御影石(花崗岩)で出来ていたのですが、どの親柱も黒く汚れています。これは空襲で焼け死んだ人たちの焦痕と言われています。何10年も経った現在でも、はっきりと残っているのです。
(3)東京大空襲による被害
3月10日未明から始まった空襲により、墨田区は約75%以上が焼失、特に南部の旧本所区は約96%が焼失しました。この空襲による犠牲者は10万人に達し、特に、台東・墨田・江東の3区だけで、死者は8万人超、80%を超えました。
図2は、「東京都区部焼失区域図」です。
特に被害が大きかった墨田区及びその周辺を抜粋しました。色の濃い部分が焼失した区域です。
・旧本所区、旧深川・城東区(現江東区)及び隅田川を挟んで旧浅草区(現台東区)はほぼ全域が焼失しています。本所区内は96%が焼失。
・旧向島区は東向島・京島・堤通・隅田・八広は一部を除き、区内の65%以上が焼失しました。
図2の中の鎖線の枠は、次の写真2の航空写真を撮影した範囲です。
写真2は、終戦3年後の昭和23年(1948)8月に撮影した航空写真です。旧本所区と旧向島区の区境、向島・押上・東向島・京島地域が写っています。
焼失した地域と焼失を免れた地域がはっきり判ります。
・曳舟川が右上から対角線状に左下に向かって黒く直線状に写っています。
・白い部分は焼失した地域で、旧本所区地域及び現在の押上3丁目地域が一面焼け野原になりました。
・焼け野原の中に、鉄筋コンクリート建築であった言問小学校・小梅小学校・旧牛島尋常小学校(*3)や同潤会アパート(「第2章曳舟川周辺の歴史 2.関東大震災 (3)同潤会アパート」を参照)、隅田川沿岸が焼け残っています。
・焼失した地域に白い屋根が点在、疎開先から元の住民が戻ってきています。
・曳舟川沿いに菊美屋酒造の工場棟が建ち、白く写った屋根が数棟見られます。
・三角池(*4)は恰好の釣り場でした。三方が鉄道に囲まれ立ち入りは禁止でしたが、子供たちの楽しい遊び場でした。今は無くなり、懐かしい思い出の池です。
〈注〉
*1 3月10日午前0時8分、米軍は1機に6㌧の爆弾・焼夷弾を積んだ「B29爆撃機」325機の大編隊が本所・深川・浅草・上野等の下町一帯を2時間半にわたり無差別じゅうたん爆撃、約2000㌧の爆弾・焼夷弾を投下し焼き尽くした。(平成17年3月8日読売新聞より)
*2 狩野光男は、昭和5年(1930)浅草生まれの画家。先祖は江戸時代の狩野派の絵師という。13歳の時、東京大空襲に遭遇、両親と妹2人を失う。「空襲の真実を伝えたい」と自らの体験を描いている。
*3 牛島尋常小学校跡には、昭和21年(1946)都立本所高等実践女学校が移転、昭和25年(1950)都立本所高等学校に改称した。
*4 三角池は、東武伊勢崎線・亀戸線・京成押上線に囲まれた池。現在は地下鉄半蔵門線の地下への進入口になっている。