次の写真は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により焼け野原になった向島の様子です。
この空襲による犠牲者は10万人に達しました。特に台東・墨田・江東の3区だけで犠牲者が8万人を超えたことは、前号で掲載した通りです。
ウクライナや中東ガザ地区の状況を報道映像で見ると、当時を思い起こし、今でもぞっとします。 私の幼少期は、この焼け野原からスタートしました。
(4)終戦直後の我が家
私たち家族は焼け出されたため、伯母の嫁ぎ先(千葉県南房総市)や母の実家(江戸川区平井)近くの借家等に一時移転し、多くの人たちのお世話になりながら過ごしました。この間、向島に1人残った祖父は、焼失を免れた近くの菩提寺である正圓寺にお世話になり、庫裏に泊まらせて頂きながら焼け跡の処理・整理に明け暮れました。しかし、心身の過労のためもあってか、空襲から2か月後の5月18日に終戦を知らないまま病死しました。
東京大空襲から5か月後の8月15日、終戦を迎え、私たちは空襲の恐怖から解放されました。この年の秋に、自宅があった曳舟川通り沿いの現在地に、叔父たちの協力を得て、小さなバラックの自宅を建てることが出来ました。私たち家族は半年ぶりに、狭いながらも、我が家で安心して過ごすことが出来ました。
曳舟川は、沿岸にあった工場も民家もほとんど焼失していたために川への排水がなく、以前のドブ川は川底まで見えるほど澄んでいました。川の中には、空襲の火災から守るために投げ込まれたと思われる自転車・リヤカーや家具等が沈んでいました。
我が家の周りにはまだ家がなく、視界をさえぎるものはほとんどなかったので、西の方を見ると、焼け残った松屋デパートが見えました。その隣には、夕日を背にした富士山のシルエットを見ることが出来て、今でも目に浮かびます。
食べ物がなく、当時32歳の母は大変な思いをして千葉県習志野や市川の在にある農家まで買出しに行きました。早朝、まだ薄暗い中、私は眠い目をこすりながら、弟を背負った母に連れられ、歩いて始発駅の両国駅(途中駅の錦糸町駅や亀戸駅からは満員で乗れなかったため)まで行き、買出しの乗客で溢れそうな一番列車に乗って出かけました。
父が復員(兵役から帰ること)してからは、家の周りのわずかな空き地を畑にしました。トウモロコシ・ジャガイモ・サツマイモ・トマト・ナス・キュウリ・カボチャなど収穫したことを思い出します。
(5)空襲後の惨状
話は少し遡りますが、アメリカ軍の爆撃機による空襲が頻繁になった昭和19年(1944)8月、子供たちの命を空襲から守るために、全国の大都市で「学童疎開」が行われました。東京では、小学3年生から6年生までの子供たちを空襲の心配がない、千葉県や茨城県等の農村地帯に移住させ、旅館やお寺の本堂等を宿舎として集団で生活させるのです。学校の授業もそこで行われました。
昭和20年(1945)3月上旬、6年生の多くは卒業式のために、東京に戻ってきました。3月8日に帰ってきた6年生たちもたくさんいました。しかし、悲しいことに3月10日の東京大空襲に遭遇し、多くの6年生が焼死しました。まるで空襲で命を落とすために東京に帰ってきた様な悲惨な事態でした。一方、疎開先に残っていた3年生から5年生の子供たちの命は救われました。しかし、彼らにも悲しい事態が待ち受けていました。戦争が終って、子供たちは疎開先から、東京に戻ってくると、東京は空襲で焼け野原です。両親を亡くし家も焼かれ、行く所が無なくなり孤児(みなしご)になってしまった子供たちが、沢山うまれてしまったのです。「戦災孤児」と呼ばれていました。地下鉄の上野駅からJR上野駅に通じる地下道には、寒さや雨露を凌ぐことが出来るので、大人たちに混じって、沢山の戦災孤児たちがいました。私は用事で母に連れられて何度か上野駅の地下道を通りました。両手で膝を抱え背中を丸くしながら、冷たい床に座っていた孤児たちの姿が目に焼き付いています。彼らには何の罪もないのに、なぜ・・・・。
この他にも、私たちが目にしていない、空襲による悲惨な状況が、日本中のあちこちで起こっていたと思います。
昭和22年(1947)7月から3年半にわたり、NHKラジオで「鐘の鳴る丘」と言う番組が放送されました。菊田一夫が、戦災孤児たちの共同生活を描いたラジオドラマです。主題歌は菊田一夫作詞・古関裕而作曲「とんがり帽子」の歌です。
川田正子の明るい声で「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘が鳴りますキンコンカン・・・」の歌が流れると、子供たちはラジオの前で耳を傾けました。
その後、この番組が松竹で映画化されました。写真3は、その時の舞台になった、戦災孤児たちの厚生施設「鐘の鳴る丘集会所」です。元温泉旅館だった建物が使われました。現在は長野県あずみの市で「市の有形文化財」として保存されています。
戦争で生き残った親たちは、衣食住が不足している中、苦労を重ねて子供たちを育ててくれました。そのお蔭で私たちは元気な社会人に成長することができました。また、戦災孤児になってしまった多くの子供たちは、更なる苦労・苦難を乗り越えて成人したことと思います。その後は、戦後の日本経済復興に向けて、みんなが一生懸命に働き、現在の豊かな日本の礎(いしずえ)をつくりました。
今でも世界中のあちこちで戦争が起きています。そこでは、私たちが子供の頃に体験した様な、住まいを失い、食べ物が不足し、ひもじい思いをして、学校にも行けず、不安な毎日を送っている子供たちが沢山います。親を亡くした子も、兄弟姉妹を無くした子もいます。
日本は、70年余り前にこの様な悲惨な経験を経て今日に至りました。「今の日本は、安全で食べ物の心配もなくとっても幸せな世の中だ」と思いませんか。「自分の家で、家族と安心して暮らせる。毎日、学校で勉強ができ、友だちとも遊べる」こんな当たり前と思うことが、実はとても幸せなことなのだとつくづく思います。
(6)戦災資料センター
江東区にある「東京大空襲・戦災資料センター」(北砂1―5―4)には空襲に関する詳細な資料が数多く保存・展示されています。同センターの入口の銘板には次の様に記されています。
『太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月10日未明、約300機のB29による下町地区を中心とする無差別爆撃は、人口過密地帯を火炎地獄にしました。罹災者は100万人をこえ、推定10万人もの貴い命が失われました。3月10日を含め、東京は100回以上もの火の雨にさらされ、市街地の6割を焼失したのです。
民間の「東京空襲を記録する会」は、空襲・戦災の文献や物品を広く収集してきました。当研究所は、この資料を保存し都民の蒙った戦争の惨禍を次代に語りつぎ、平和の研究と学習に役立つ場に・・・中略・・・当センターを完成することが出来ました。
財団法人政治経済研究所』
皆さんも「すみだ郷土文化資料館」と共に「東京大空襲・戦災資料センター」を見学することをお勧めします。
東京都は平成2年(1990)に、3月10日を東京都平和の日に制定しました。
この日は都庁大会議室で式典が行われ、都民は午後1時に1分間の黙祷を行います。一方、東京都慰霊堂(横網2―3―25 都立横網町公園内)では追悼の「遭難者慰霊大法要」が皇族をお迎えして行われます。