文責:横井正男
1.江戸時代
江戸の絵師 歌川広重が描いた「名所江戸百景 請地秋葉の境内」や長谷川雪旦(せったん)が描いた「江戸名所図会 請地権現宮・千代世稲荷社」(権現は秋葉権現のこと)等でも知られる秋葉神社は火伏の神様として、当時から江戸の名所でした。特に徳川御三家、大奥女中をはじめ諸大名や奥方、火を扱う職業の料理屋・鍛冶屋・火消し等々、江戸市中に多くの崇敬者があり大変賑わいました。
神社の門前には有名な料理屋もあり参拝者の楽しみでもありました。境内には沢山の寄進された石灯籠がありましたが、多くは災害や戦災で破壊し、現在は墨田区の文化財としての灯篭が僅かに残っています。
この様に、この界隈は秋葉神社を中心に賑わっていたと伝えられています。35年
絵図は江戸時代後期の絵師長谷川雪旦(はせがわせったん)が俯瞰して描いた幕末期の秋葉神社「江戸名所図会 請地権現宮・千代世稲荷社」です。
下辺の道は現在の大岩医院前の道です。右下の鳥居からの参道は大和田うなぎ店前の道です
2.明治時代初期
およそ150年前、時代は江戸から明治に変わりました。明治11年(1879) 7月の郡区町村編成法公布により東京15区6郡制がしかれました。当地は東京府南葛飾郡請地村になりました。請地村は広い村で、現在の花王石鹸(福神橋際/飛木稲荷神社の旧氏子の範囲)までありました。
当時の向島界隈は、長閑な田園地帯でした。福岡県柳川出身の北原白秋は、上京後、郷土の水郷に似た曳舟川(写真1)界隈を気に入って、よく散策していました。彼の詩「片恋」には曳舟の名が記されています。
- 明治22年(1889) 市町村制施行で本所区が拡張された。その結果、南葛飾郡須崎・小梅・中之郷・押上・柳島村の大部分と請地村の一部が本所区に編入され、当地の住所は東京府東京市本所区向島請地町になる。
南葛飾郡には、請地村残りの大部分・小村井村・葛西川村・大畑村等と合併し吾嬬町が誕生した。同時に隅田町・寺島町・大木(後に吾嬬町に編入)町の四町が誕生した。
3.明治時代中期以降
明治政府の富国強兵・殖産興業政策により、安価な広い土地を求めて大工場が徐々にやって来ました。また、工場が建設されると、従業員、その家族等が移住、この界隈の人口は増加し始めます。
- 明治43年(1910)8月 明治以降最大の洪水、東京は東部中心に被災者150万人の大水害。
- 明治44年(1911)「荒川放水路事業」に着手。
- 大正12年(1923)9月1日 関東大震災発生、死者・行方不明者10万人超、その内、旧本所区内だけで5万4千人。
- 昭和5年(1930) 荒川放水路(現在の荒川)が工期20年を経て完成、川幅 500m、赤羽岩淵水門~河口 全長22㎞。
- 昭和6年(1931) 関東大震災復興事業の区画整理により、水戸街道・桜橋通り・小梅通りが出来た。
- 昭和7年(1932) 東京市35区制により、隅田町・吾嬬町・寺島町3町が合併し向島区が誕生。
4.昭和初期
震災により壊滅的になった工場地帯ですが、不死鳥の様に蘇ります。震災後は更に工場は増え、そこに関わる中小零細工場も増え、人口も増加しました。
主な工場/ミツワ石鹸、花王、ライオン石鹸、資生堂、鐘ヶ淵紡績、東洋紡、精工舎、アサヒビール、神谷酒造、合同酒精、大日本セルロイド・明治製革・・・等
- 昭和15年(1940) 内務省訓令により、町内会をつくり、その下に隣組が置かれた。当時「隣組」の歌が唄われていた(下記はこの歌の1番の歌詞)。
トントントンからりっと 隣組
格子を開ければ 顔なじみ
廻して頂戴 回覧板
知らせられたり 知らせたり
- 戦前の町内会名は「請地北町会」。
我が町「向島請地町」には、他に「請地元町会(現在の押上2丁目町会)」・「請地南町会(現在の押上1丁目仲町会)」がつくられた。 - 昭和18年(1943) 都制施行(府を廃止)
当地の住所は東京都本所区向島請地町になる。
5.終戦直後
昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により本所区のほぼ全域が焼失、区内の町会はほぼ壊滅状態になりました。
周辺の工場等の生産活動が停止したため、隅田川は水泳が出来るほど、また曳舟川は魚が泳ぎ川底が見えるほど、きれいな川になりました。
- 昭和22年(1947) 都制改正(22区→23区)
本所区・向島区が合併し墨田区誕生。区の名称は墨堤と隅田川から一字ずつとって名付けられた(すみだクロニクル)。住所は東京都墨田区向島請地町になる。 - 昭和23年(1948) 5月、両国の川開き(花火大会/注1)が復活した。
注1:隅田川の川開き(花火大会)の起源は江戸徳川8代将軍吉宗の時代、享保17年(1732)は全国的に大凶作で百万人もの餓死者、更に、疫病(コレラ?)が流行し多数の死者を出した。幕府は、疫病退散祈願と死者の霊を慰めるため、翌年5月の水神祭の折に両国で花火を打ち上げたのが始まり。以後「両国川開大花火」として行われてきたが、昭和14年(1939)日中戦争が始まり中止になった。戦後、両国の川開きとして復活、昭和23年(1948)~36年(1961)の間続けたが、隅田川の水質汚濁や交通事情の悪化等により、再び中止となった。
6.昭和中期
戦災により壊滅状態になった工場は、再び工場を立上げ、戦後の日本経済発展の一翼を担いました。その結果、日本経済は復興しましたが、河川の汚濁・大気の汚染・地盤沈下・騒音問題等の公害や交通渋滞等が発生します。
- 昭和26年(1951)9月 祭礼の神輿及び太鼓を新造した。(注2)
注2: 未だ戦後の混乱冷めやらぬ頃、町を盛上げようと祭礼のための神輿及び太鼓を新造してくれた先人たちがいた。秋葉神社仮社殿の前で喜びの神輿完成記念撮影。
物資が不足していた頃と思われるが、お揃いの浴衣を着ている。
- 昭和28年(1953)4月1日
戦後8年を経て、地元の米岡啓三郎氏をはじめ有志の方々が発起人となり、戦後復興中の混乱期、苦労を重ね「向島請地北町会」を設立。初代会長には米岡啓三郎氏が就任。
- 昭和30年(1950) 曳舟川の埋立完了。
- 昭和32年(1957)5月 第2代会長に岡龍太郎氏が就任。
- 昭和35年(1960)9月 この頃の秋祭り 大・小の神輿が揃い記念撮影
- 昭和36年(1961)7月 両国の川開き(花火大会)は、河川の汚濁・交通渋滞等で、この年を最後に終わる。
- 昭和39年(1964) 住居表示変更。当地は東京都墨田区向島四丁目になり、町会名を「向島四丁目北町会」に変更。
- 昭和39年(1964)5月 第3代会長に石川義信氏が就任。
- 昭和39年(1964)12月 町会報第1号発行。
- 昭和41年(1966) 町会の氏神様である秋葉神社の社殿が再建された。戦災で焼失後に建てられた仮社殿は、現社殿の右隣に移設しお守りされている。
- 昭和44年11月 町会報57号発行、以後休刊。
7.昭和後期から平成へ
日本経済発展と共に大気汚染・水質汚濁・光化学スモッグ・地下水の汲み上げによる地盤沈下等の公害が問題になりました。昭和46年、環境庁が発足、その後、地方への工場移転も進み、空気・河川の汚れも大幅に改善され、住みよい街になりました。
- 昭和48年(1973)2月 町会報再刊1号発行。
- 昭和51年(1976)5月 第4代会長に高津一氏が就任。この頃、有志が集まり青年部を立上げ、餅つき大会、ハイキング等活発に活動した。しかし、その後、町内の新たな青年たちの加入がない等の理由から解散した。(注3)
注3:この頃、町内を盛上げるために、有志が集まり「餅つき大会」を開催した。これをきっかけとし青年部を立上げ、ハイキング等も企画、活発に活動した。当時、近隣の町内には青年部がなく、賛同した近隣町会に声をかけ、地域の青年部として活動、現在の墨中地区青年部に繋がり、夏休みには盆踊りを開催している。しかし、町内の青年部は、新たな青年たちの加入がない等の理由から解散した。(河村恭輔氏談)
- 昭和53年(1978)7月29日 第1回隅田川花火大会(注1)が開催された。町会への自主警備要請に、組織を作って対応、以後毎年の開催には、町会の業務役員が分担して地域の警備にあたっている。
- 昭和53年(1978)12月16日 念願であった「請地児童遊園」が完成した。この日、開園式が、墨田区長・同区議会議長・本所警察署長・本所消防署長・近隣町会長等を迎え行われた。
- 昭和55年(1980)5月 第5代会長に横山嶽雄氏が就任。
同年7月25・26日 秋葉神社境内において納涼踊りが行わた。以後毎年行われている。
この頃、有志が集まり、現在の「有志会」として町内催事で夜店を開く。(注4)
注4:この頃、再び有志が集まり、正月の餅つき大会を再開させた。更に「有志会」として活動、「夜店開き(下記写真)」も加え、元旦・納涼踊り大会・秋の祭礼・秋葉神社鎮火祭等、町内の催事で店を開き、子供たちのみならず大人たちも楽しませ、町内の行事を盛上げ、現在まで続けている。
(田中太三男氏談)
- 昭和55年(1980)頃 町内の芝居好き有志が集まり秋葉劇団を結成、秋葉神社鎮火祭に神楽殿で芝居を奉納、大変な人気、マスコミ各社が度々取上げ注目を浴びた。(注5)
注5:この頃、町内の有志が秋葉劇団を結成、秋葉神社鎮火祭に神楽殿で素人芝居を奉納し、大変人気を集めた。NHK・フジテレビはじめ各局の取材を受け全国に放映、新聞社各社の取材も受け各紙に掲載、紹介された。芝居は好評で、10年以上続けて奉納された。(下記写真参照)
団員(◎団長):◎日塔大三、瀬川昇、遠藤太三、柏木保太郎、佐々木健次、松土澄夫、青木千代等(敬称略) (青木千代氏談)
- 昭和61年(1986)5月 第6代会長に加藤正治氏が就任。
- 平成2年(1990)5月 第7代会長に掛川静雄氏が就任。
- 平成15年(2003)4月 町会は創立50周年を迎えた。
- 同年6月15日 創立50周年記念式典及び祝賀会を開催した。(注6)
注6:来賓として墨田区長はじめ、警察・消防署長、衆議院・都議会・区議会各議員、本所北部町会長等を迎え、錦糸町ロッテ会館に於いて挙行、席上、町会功労者21名も表彰され盛大であった。下記写真
(石井利男氏談)
- 平成20年(2008)5月 第8代会長に佐々木健次氏が就任。
- 平成21年(2009)3月 区内巡回バス(すみまるくん・すみりんちゃん)が運行を開始、観光客・区民の区内移動が容易になった。
- 平成23年(2011)7月 3月11日に発生した東日本大震災により東北地方は甚大な被害が発生、全町会員に声をかけ、町会をあげて被災地に(墨田区を経由)義援金を送った。
- 平成24年(2012)5月22日 東京スカイツリー開業。東武スカイツリー社では「開業前視察会」が催され、周辺の町会に各50名の招待があった。町会は希望者を募り、4月22日(日)秋葉神社境内に於いて、招待者を決める大抽選会を挙行した。当日の抽選会は、大変和やかに楽しく盛り上り50名が決定した。後日行われた視察会に参加した一行は、一足早く450mからの眺望を楽しんだ。
- 平成23年(2011)12月 31日 秋葉神社境内参道の両側に、初めて行灯(あんどん)を並べ初詣参拝者を迎えた。行灯内の照明は蝋燭を用いた。
8.平成から令和へ
東京スカイツリーの完成と相俟って、区内の整備が進み、北十間川改修・みずまち・隅田川リバーウォーク(歩道橋)・電線の地中化・歩道の改修等、観光都市づくり・住み易い街づくりが促進され、現在に至っています。
- 平成26年(2014)5月 第9代会長に石井利男氏が就任。
- 令和元年(2019)10月 副会長会議を開催、以後、月例開催
- 同月「町会ウォーキングマップ」を「こうめ高齢者支援総合センター」等の協力を得て発行した。(注7)
注7:令和元年(2019)10月、町会で「向島四丁目北町会ウォーキングマップ」を「こうめ高齢者支援総合センター」等の協力を得て地域リハビリテーション活動支援事業の一環として発行した。その後、秋葉クラブ(敬老会)主催で「歩く会」を立上げ、毎月2回(第2・4月曜日)健康ウォークを続けている(夏季猛暑期間は休会)。
ウォーキングマップ
- 令和2年(2020) 新型コロナウイルス感染が全国的に拡大し、町会は4月~9月の月例役員会を中止、4月以降令和4年迄の間、花見・納涼踊り・祭礼等の行事を中止した。
- 令和3(2021)5月 第10代会長に柏木保男氏が就任。
- 令和4(2022)9月 祭礼の神輿(大)を解体修理し真新しくきれいにした(注8)。しかし、この年もコロナウイルス感染禍は収束せず祭礼は中止、神輿のお披露目は延期となった。
注8:令和4年9月大きい方の神輿を修復。完了後に「清祓(きよはらい)の儀」を行った。
- 令和5年(2023)7月 4年ぶりに第46回隅田川花火大会開催が開催された。町会が警備にあたる。
- 同年9月 17~18日、4年ぶりに祭礼を挙行、神輿のお披露目も行われた。町内巡行の18日は、猛暑日であったが、雨の心配もなく賑やかに行われた。
- 同年11月 念願の「町会ホームページ」を立上げる
- 同年12月 31日 秋葉神社境内参道の両側に、例年通り行灯(あんどん) を並べた。行灯には、子供たちが思い思いの願いごとを書き、数も増やして初詣参拝者を賑やかに迎えた。 行灯内の照明は、数年前から蝋燭を廃し、小型LEDランプを採用した。
- 令和6年(2024)1月 町会報550号を発行
- 令和6年(2024)6月3日 崇敬会行事「縁日開き」が行われ、大いに賑わった。なお、夜店の運営については、従来担当していた有志会が、諸般の事情から発展的に解散したことから、5月の総会において事業部の分掌業務を改正し、同部に移管されることとなった。これに伴い、事業部については、若手町会員が多数加入し、大幅な体制強化が図られた。
現在、向島4丁目に旧地名「請地(うけち)」の名残は、「請地児童遊園」「請地ハイツ」の名称に、また「祭礼の太鼓」に「請地」の旧町名が残されています。