秋葉神社今昔

改めて申し上げるまでもありませんが、秋葉神社は向島四丁目北町会の氏神様であります。

ご存じのとおり、秋葉神社は、古来より、火伏せの神を祀る、氏子を持たない崇敬神社として、将軍家や諸大名をはじめ多くの方々の信仰を集め発展してきましたが、近年に至り、諸般の事情から、当町会のみを氏子町会とする、地域の氏神様としての性格も併せ持つ神社となりました。

氏神様とは、産土神(うぶすなかみ)、即ち、生まれ育った土地を守護してくれる神様ということですが、当町会員が氏子の大半を占める秋葉神社は、誠に身近で、親しみやすい、正に我が町会の産土神であります。

そこで、町会員の皆様に、秋葉神社についてより深くご理解頂くため、昨年まで当町会の前副会長を務められた横井正男氏の著作「向島四北の歴史あれこれ」から、秋葉神社に係る記述を抜粋し、ここに掲載して頂くこととしましたので、是非ともご一読頂きたいと存じます。

「向島四北の歴史あれこれ」より 秋葉神社

横井正男

今回は向島四丁目北町会の氏神様「秋葉神社」の歴史を調べてみましょう。写真1 は平成26年(2014
年)に撮影しました。

現在の秋葉神社 大鳥居と社殿 社殿は昭和41年に再建された
【写真1】現在の秋葉神社 大鳥居と社殿
社殿は昭和41年に再建された

秋葉神社の創建は正応2年(1289年)と伝えられています。この地を「五百崎(いおざき、庵崎とも書いていた)の*1千代世(ちよせ)の森」といい、千代世稲荷大明神が祀(まつ)られました。江戸時代初め、ここで数年修行した善財というお坊さんが秋葉大神のご神影を彫って社殿に奉納して去っていったそうです。元禄のはじめ(1690年)頃、修験者の千葉葉栄(しょうえい)師がこのお社で祈願し、ご利益を得ました。葉栄師は元禄15年(1702年)に請地村(現在の向島四丁目、押上一・二丁目の一部)の長(おさ)百姓岩田與右衛門を通じて寺社奉行に秋葉大権現の勧請を願い出ました。時の老中沼田城主本田正永の支援を得て勧請が実現し、秋葉・稲荷両社と称して社殿・神域を造営しました。ご神体は火焔を背負った天狗です。(以上「秋葉神社由緒書」より)

*1「ちとせ」との伝聞もあるが定かではない。

図1は江戸時代末期に斎藤月岑が作った「江戸名所図会」中の長谷川雪旦(せったん)が描いた「請地権現宮・千代世稲荷社」です。

図1 江戸名所図会「請地権現宮・千代世稲荷社」長谷川雪旦画
【図1】 江戸名所図会「請地権現宮・千代世稲荷社」長谷川雪旦画

鳥瞰図に描かれており、往時の広い境内の様子が判ります。

絵の下辺に描かれた道は現在の大岩医院前の道路です。この道の左方は長命寺・弘福寺・牛島神社(当時は弘福寺と墨堤の間にあった)に至ります。右下の鳥居から社殿に至る幅広い道は現在の大国屋酒店・大和田前の道で秋葉神社の「表参道」です。

秋葉神社の境内は約七千坪という広大な社地を有し、江戸市中でも鎮火の神様、火伏の神様として、将軍家はじめ諸大名・旗本・大奥はじめ多くの人々の崇敬を集めた神社でした。また、隣接して当時、江戸で有名であった武蔵屋・大七等の料理屋が軒を並べていました。江戸城大奥の女中たちは秋葉神社の参詣を兼ねて向島界隈へ遊びに出掛けることが楽しみだった様です。

安政3年(1856年)に発行された尾張屋版江戸切絵図・隅田川向島絵図には、広い境内の神社が秋葉山として画かれています。
当時は神仏習合の時代で、千葉葉栄師は更にこの地に千葉山満願寺を興し別当(社務と寺務の統括を兼ねて行った役職)を勤めました。現在の千葉元(はじめ)宮司は一三代目だそうです。

次の地図(図2)は「復元江戸情報地図」(朝日新聞社発行)から、秋葉神社を中心に抜粋しました。この地図はすみだ郷土文化資料館内にも掲示されています。当時の江戸地図と現在の地図を重ね合わせて作られています。中央に広く「秋葉社・別当満願寺」と記されています。近在の社寺の境内に比べてその広さが判ります。

秋葉神社の右側には隅田川から流入している細い「古川」が記されています。現在は埋立てられて細い路地になっていますが、この路地が墨田区合併前の旧本所区と旧向島区の区境でした。神社境内の左上(北西角)は言問小学校の南東角にあたります。

図2
【図2】

明治時代に入り神仏分離令・廃仏毀釈により満願寺は廃寺になりました。また近在の飛木稲荷神社は別当寺であった円通寺から分離され秋葉神社に移管されました。現在も千葉元宮司が秋葉神社・飛木稲荷神社両社の宮司を勤めています。

秋葉神社の境内には江戸時代の大名や奥方・大奥の女中が寄進した沢山の石灯籠がありました。関東大震災や特に東京大空襲により、その多くが倒壊し、今では見る影もありません。現在、境内にある灯籠は、宝永元年(1704年)老中本田伯耆守正永が一対、宝永2年(1705年)旗本の関東郡代・前橋城主伊奈忠宥(ただおき)が一対、宝永6年(1709年) 忠宥の息子で前橋城主酒井雅楽頭(源)忠挙(ただたか)が一基、寛保3年(1743年)に酒井雅楽頭の娘で松平甲斐守吉里の奥方になった源頼子が一対奉納したもの合計七基が往時の面影を偲ばせています。

何れの灯籠も墨田区登録有形文化財になっており、「すみだの史跡文化財めぐり」(教育委員会編)には「大名たちの寄進物が現存する貴重な例であり、秋葉神社に対する信仰のあり方が伺える」と添えられています。

秋葉神社には江戸時代からの古文書が100点ほど伝存されています。墨田区にとって最も貴重な資料の一つで、教育委員会により「集成1」としてまとめられています。その中には当時の諸大名からの寄進帳や請地村人別帳などもあります。

写真2は明治40年(1907年)頃の拝殿・神楽殿の様子です。境内の南側から北にある社殿を撮った景観です。

写真2
【写真2】

戦後、現在の社殿が再建されるまでは、元々、本殿・拝殿は境内の中央に位置し、南に向いて建てられていました。また、境内には有名な「千葉の松」(写真3)がありました。見事な枝ぶりの松ですね(写真2及び3は何れも日本カメラ博物館所蔵)。

写真3
【写真3】

書籍「隅田川とその両岸」(豊島寛彰著)には『広い境内は、明治期には千葉の松の周りで、本所一帯の小学校の運動会を催した』と記されている程でした。この松をはじめとして、付近一帯は江戸郊外の松の名所地で、曳舟川(現在の曳舟川通り)沿い、現在の女性センターがある近くには有名な「七本松」がありました。そして「女性センター」交差点の位置には名所の松に因んだ名前の「七本松橋」が曳舟川に架かっていました。その後、時期は不詳ですが七本松がなくなった後も、この橋は、川が埋立てられる昭和30年(1955年)頃までありました。

明治時代になり、秋葉神社の中心的な崇敬者であった将軍家はじめ諸大名等の経済的支援がなくなり、神社は厳しい状況に置かれたと思われ、境内の多くの土地が人手に渡ってしまったようです。更に、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災後の復興事業による区画整理や本殿裏の水戸街道の開設工事により、境内は幅広い街道に分断され、一層縮小されていきます。昭和6年(1931年)凡そ90年近く前のことです。

明治17年(1884年)に、広い境内の北西部奥の約千坪に遊興宿泊施設の「有馬温泉」(図3)が創設されました。

図3「向島有馬温泉」(山本松谷画)東京名所会図より
【図3】「向島有馬温泉」(山本松谷画)
東京名所会図より

「江戸東京怪談文学散歩」(東雅夫著)によると、この温泉施設は兵庫県有馬温泉「中の坊」の経営者梶木源之助が有馬から湯花を移し創業、大きな池のある庭に、宿泊施設・浴室・売店が設けられ、さながら現代のスパ・リゾートを思わせる行楽地であったと記されています。その後、この施設は無くなり後年、「有馬湯」という銭湯に代わりました。

現在、有馬湯は無くマンションに建て代わり、その入口の壁には往時の詳細を紹介した銘板「向嶋有馬温泉縁起」が掲示されています。この位置が秋葉神社境内の北端でした。

次の地図(図4)は昭和12年(1937年)発行の「須崎町・向島三丁目・請地町北部連合町会現住者案内図」からの抜粋です。

図4
【図4】

図4の中の秋葉神社(大きい〇印)の表参道入り口に鳥居の記号(小さい〇印)が記されています。現在の日暮・田中宅の間にあたります。当時までは、ここに図1の絵に描かれていた鳥居があったことが判ります。また、この年の二月に開校した言問小学校の隣には、前述の「有馬温泉」があった場所に銭湯「有馬湯」と温泉マーク(中○印)が記されています。いずれも神社の広かった境内の当時の名残です。この鳥居は昭和20年(1945年)3月の東京大空襲で倒壊したと思われます。私は、戦後も昭和20年代の中頃(1950年前後)位までは鳥居の台座(痕跡)があったと記憶しています。父から「この参道は、お祭りや縁日の時には夜店が一杯並んで大層賑っていた」と聞かされていました。この台座はいつの頃か気が付いた時にはなくなっていました。

この地図(図4)から、神社裏の水戸街道には都電が敷設されていることが判ります。図の右上に「向島終点」の停留所がありました。また、神社の北東隣(現在のベルメゾン向島マンションの位置)には「向島市場」(写真4)が記されています。

写真4 左手前が向島市場
同市場は昭和4年に開設された。水戸街道に面し前にはバス停があった。左手奥の樹木は秋葉神社の杜。水戸街道も神社の境内であった。
写真4 左手前が向島市場
同市場は昭和4年に開設された。
水戸街道に面し前にはバス停があった。
左手奥の樹木は秋葉神社の杜。
水戸街道も神社の境内であった。

また、言問小学校の南側には「ライオン石鹸工場」が記されています。今では想像もつかない程の変貌ぶりですね。

昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲により社殿が焼失しました。それまでの社殿は南向きで、背面が水戸街道に面していたことは前述の通りです。

戦後の混乱に乗じ、隣接する鳩の街と併せてここを歓楽街に変えようとした人たちにより、社殿の石垣や数々の灯籠が解体され更地にされてしまいました。この石の多くが境内の南側にしばらく山積みにされていました。歓楽街の計画は実施されず、民家が建ち現在に至っています。

昭和41年(1966年)地元の崇敬者の奉賽により境内の南側に現在の社殿が再建されました。写真5は再建前の昭和40年(1965年)頃に撮影された写真です(出典不詳)。

【写真5】再建直前の秋葉神社
(昭和40年前後の撮影)鳥居は正面が南に向いており、柱には「奉納昭和6年11月吉日」と刻まれている。
【写真5】再建直前の秋葉神社
(昭和40年前後の撮影)
鳥居は正面が南に向いており、柱には
「奉納昭和6年11月吉日」と刻まれている。

現在の社殿が再建される前の様子です。大鳥居の右柱の奥には現在も残る補強されてしっかりと建っている「常夜灯」の主柱と若かりし頃の「ご神木の大イチョウ」でしょうか、正面奥に社殿の礎石が写っています。再建後の現在は、社殿の右隣に旧社殿が祀られています。この頃の第一二代宮司千葉栄(さかえ)先生や町会の人たちの社殿再建に向けた苦労や意気込みが当時の「町会報」に記されています。

千葉栄先生は東洋大学名誉教授で、東京府立第七中学校(現在の都立墨田川高校)を卒業されました。同校を卒業した筆者の大先輩にあたります。千葉先生は母校の同窓会「墨水会」の第四代会長もつとめられ、母校の振興・発展のためにも尽されました。

町会の祭礼は毎年9月中旬に行われていますが、秋葉神社では毎年11月17・18日に江戸時代から続く最も大切な行事である「鎮火祭(ちんかさい・ひしずめのまつり)」が執り行われています。この日は遠隔地からも崇敬者の参詣があり、火の恩恵に感謝し、火災から守る火伏の霊験が祈願されます。現在でも絶えることなく続けられています。

前述の「隅田川とその両岸」には秋葉神社について「江戸時代の秋葉社の紅葉は江戸中に響いており、今の奥多摩や日光と同様、近郊の名所であった」とも紹介されています。

最後に、安藤広重作・名所江戸百景、松と紅葉が描かれた「請地秋葉の境内」(図5)の版画ご覧下さい。

この絵が収録されている「名所江戸百景 広重画」(集英社発行)の中に、絵と共に掲載されている「請地秋葉の境内」の解説を以下に紹介します。

【図5】名所江戸百景より「請地秋葉の境内」広重画
【図5】名所江戸百景より
「請地秋葉の境内」広重画

「秋葉神社は遠州の秋葉権現を勧請したので、火の守り神として信仰者が多かった。神社のかたわらに葛西太郎・武蔵屋・大七といった料理屋があったので、江戸時代はこの地を踏む人が多かった。ここの社の前に神泉の松というのがあって、空洞の幹の中から清水が湧くという不思議があった。その水を飲むと諸病がたちまち治るというので、その水貰いでも賑わった。絵にある池は神社の西側にあって5000坪(16、500㎡)もあったという。秋は池に映る紅葉の美しさで杖を引く風流人は相当多かった。この池はつぶされて今は無い。向島花柳界の一角として料亭などが居を構えている。               (文・宮尾しげを)」