(3)隅田公園の開園
「第2章曳舟川周辺の歴史/2.関東大震災/(2)震災後の復興事業/大公園の新設」で述べた様に、隅田公園は復興事業の柱である三大公園として、錦糸公園(墨田区)・浜町公園(中央区)と共に昭和6年(1931)に完成しました。
隅田公園は広く、墨田区側は向島1・3・5丁目、台東区側は今戸1・浅草7・花川戸1・2丁目にわたる日本最初の「リバーサイドパーク(河畔公園)」です。
特に、隅田公園の墨田区側は、旧須崎町以南の牛島堤及び旧水戸徳川家本邸跡(向島1丁目)を含めて完成させた和洋折衷の東都を代表する公園です。公園設計には、明治以降の日本の造林・造園スペシャリストであった本多静六が参画 (「2.関東大震災」の項(*4)参照) しました。
写真5は、隅田公園が完成した翌年に旧水戸徳川家本邸前付近から新しい隅田公園及び隅田川と言問橋を撮影しました。桜の幼木が初々しいですね。昭和7年(1932)、写真の右手奥に牛嶋神社が遷座しました。言問橋は公園の完成より先に昭和3年(1928)に完成しました。

(4)水戸徳川邸(小梅邸)のこと
江戸時代の水戸徳川家本邸は水戸家上屋敷(文京区後楽1丁目)でした。本邸への経緯と明治天皇の行幸について、公園内の説明板には次の様に記されています。
『江戸時代、この地(向島1丁目)は水戸徳川家の蔵屋敷で、上屋敷の小石川邸(その外庭が小石川後楽園)が、明治初めに砲兵工廠(*6)となったため、この小梅邸が本邸(当主は徳川昭武、15代将軍慶喜の弟)となりました。小梅邸は北十間川(きたじっけんがわ)から隅田川に出る舟運の要衝であると同時に、水戸と小石川邸を結ぶ水戸街道(*7) 沿いにあって街道の要衝でもありました。江戸時代から桜の名所であった隅田堤の桜が満開の明治8年(1875)4月4日、明治天皇が小梅邸に行幸され、その時の御製が石碑に刻まれています。これは徳川関係屋敷への最初の行幸で、明治政府と徳川の和解の場でした。行幸啓は以後5回に及び、明治29年(1896)には洋館が造られました。』
写真6~8は、徳川家本邸正門の写真です。時代と共にわずかずつですが様相を変えて、今日まで残されています。


(5)新しい隅田公園へ
隅田公園は開園してから約90年たちました。桜並木は一時、戦災や公害等により危機がありましたが、何度か植え替えや補植が行われ、現在は立派に成長し、都民の憩いの場になっています。春の開花シーズンには、大勢の花見客で賑います。
昭和53年(1978)に再開された夏の風物詩、隅田川花火大会には、毎年100万人近い見物客が集まります。
昭和60年(1985)には、歩行者専用の「桜橋」が完成し、台東区側の隅田公園との一体化が大幅に促進されました。
写真9は、写真5とほぼ同じ位置から撮影した現在の隅田公園の景観です。
令和2年(2020)6月には、東京スカイツリーと浅草を一体化する計画の「北十間川・隅田公園観光回遊路整備」が完成しました。

話は溯(さかのぼ)りますが、昭和6年(1931)、東武伊勢崎線は当時の浅草駅(現とうきょうスカイツリー駅)から高架で雷門駅(現浅草駅)まで延長、その途中に「隅田公園駅」が開設されました。しかし、この駅は昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失、復旧することなく昭和33年(1958)に廃止されました。
旧隅田公園駅の高架下は、今回の「観光回遊路整備」の一環として、北十間川の親水テラスと共にレストラン・喫茶店等が並ぶ商業地域「東京ミズマチ」ウエストゾーンに生まれ変わりました。
この整備と共に水戸徳川邸(小梅邸)跡の公園部分が見晴らしがよい広場へと大幅に改装されました。また、隅田川に架かる東武鉄橋脇南側に歩道橋を架設し、「すみだリバーウォーク」がオープン、浅草まで歩いて直接渡れるようになりました。
新装なった公園は、区民・都民は勿論のこと、国内外の観光客にとっても、憩いの場として益々活躍していくことと思います。
最後に苦言と愚痴をひとこと・・・。
昭和46年(1971)、東都の名所「墨堤の桜並木」を覆う様に「首都高速道路6号向島線」が開通しました。
その結果、日本の高度経済成長を支えてきましたが、今となっては日本橋の上に通した「首都高速都心環状線」と同様、郷土の史跡・景観を保護する上から、極めて残念なことであったと思っています。
また、高速道路の太い橋脚が、歴史ある三囲神社土手下の大鳥居を塞ぐように建っているのです。 江戸・明治期の「墨堤の版画・絵画」には、多々この大鳥居をランドマークの様に墨堤越しに描かれています。ここには、言問橋が架かるまで、「竹屋の渡し(三囲の渡しとも)」があった所です。
高速道路設計段階で、橋脚の位置をもう少し左右どちらかに移す様な配慮があっても良かったのではないでしょうか。
〈注〉
*6 砲兵工廠は、兵器・弾薬を造る工場。
*7 現在の水戸街道は、関東大震災後に完成した。江戸時代は曳舟川沿いの旧四ツ木街道(通称曳舟通り)が裏水戸街道として便利に使われていた。