(1)江戸時代の水戸街道
墨田区内にある国道は、6号と14号の2本です。それぞれ「水戸街道」「京葉道路」の名で親しまれています。古くから名称が残る通称「水戸街道」ですが、関東大震災(1923年)後の復興までは墨田の地に水戸街道はありませんした。水戸街道の歴史を辿ってみます。
国道6号は、起点が日本橋(中央区)で、水戸市・いわき市を経由して宮城県仙台市が終点の一級国道です。この国道6号のうち、水戸街道の名称は、言問橋東詰交差点(墨田区向島一丁目)を起点として水戸市までの間を言います。
「旧水戸街道」は、日光街道の千住宿(足立区千住)を起点とした街道で、江戸時代の五街道(東海道・甲州街道・中山道・日光街道・奥州街道)に準ずる脇街道でした。
写真1は、北千住(足立区千住5丁目)にある水戸街道の起点を示す道標です。

北千住の街中を通る旧日光街道(現「宿場通り」)沿いの北端には、江戸時代から続く「千住の名倉」で有名な名倉医院があります。その手前の交差点が旧水戸街道への分岐点です。水戸方面へは、ここを起点に、日光街道と別れて東に向かいます。
図1は、国土地理院の地図に加筆しました。

図中に、北千住を起点とする旧水戸街道を太い点線で示しました。細い点線は旧日光街道です。
旧水戸街道は北千住を出ると最初の橋が綾瀬川に架かる「水戸橋」(葛飾区小菅)です。現在は、途中で荒川(詳細は第2章「1.荒川と荒川放水路」を参照)によって分断され、道は繋がっていません。
余談ですが旧東海道でも、日本橋を出て京都に向かう最初の橋の名前が「京橋」になっています。何れの橋も目的地(街道の終点)名を意識して命名したようです。
旧水戸街道は水戸橋を渡ると亀有村(葛飾区亀有)に出ます。ここで曳舟川と交差します。第1章「3.江戸時代の曳舟川」の項で述べた通り、江戸時代には江戸市中から亀有村まで行くには、日光街道から千住宿を経由するコースではなく、浅草から大川橋(現在の吾妻橋)を渡り小梅(向島1丁目)を左折し、曳舟川の土手道、通称「四ツ木街道(裏水戸街道とも)」を北上して亀有で水戸街道に合流するコースが近道で利用者が多かったようです。
亀有を過ぎ、直ぐの中川を渡ると、最初の宿場が「新宿(にいじゅく)」(葛飾区新宿)す。この先の金町手前で現在の水戸街道(国道6号)と合流します。
(2)墨田区に国道6号が
大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災後の復興事業と共に、既に計画されていた「国道放射6号」の工事が着工されました。
図2は、大正15年(1926)の墨田区中央部(旧本所・向島区境地域)の地図(大日本帝国陸地測量部発行)です。

・将来の「水戸街道」となる国道6号が、三つ目通りの延長工事として現向島と東向島の町境(旧本所区と向島区の区境)の秋葉神社裏まで完了しています。
・復興事業の現向島1~3丁目の区画整理や計画している言問通り・桜橋通り・小梅通りはまだ記されていません。
図3は、昭和12年(1937)の地図(大日本帝国陸地測量部発行)です。図2と同じエリアです。関東大震災後の復興事業が大部進みました。
・昭和3年(1928)に言問橋が完成、国道6号は起点の日本橋と繋がりました。
・言問橋が出来たためにそれまで隅田川を運行していた「竹屋の渡し」と「今戸の渡し」が廃止されました。
・国道6号が鐘ヶ淵通りまで延長し、途中で新しく出来た明治通りと交差しています。

・現向島1~3丁目の区画整理と共に、桜橋通り・言問通り・小梅通り(当時は改正道路)の工事も完了しています。
・昭和6年(1931)には国道6号に初めて都電30番線(当時は市電/須田町~向島須崎町間)が「吾妻橋2丁目」停留所から延長し、秋葉神社裏の「向島須崎町」停留所まで開通しました。
・同じ年に、東武鉄道は終点浅草駅(現とうきょうスカイツリー駅)から隅田川を渡り雷門駅(現浅草駅)まで延長、途中に隅田公園駅を開設しました。
昭和14年(1939)には国道6号の「新四ツ木橋(現四つ木橋)」架橋工事が着工、しかし、昭和16年(1941)12月に太平洋戦争が勃発したため、昭和18年(1943)に工事は中断されました。
(3)「水戸街道」と命名
昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲をはじめ、何度もの空襲により、墨東地区は焦土と化しました。
国道6号は、終戦後の復興に伴い、中断していた新四ツ木橋の架橋工事が再開、昭和27年(1952)に完成し、ようやく葛飾区とつながりました。着工後、凡そ4半世紀が経過していました。
昭和25年(1950)には、都電が「向島須崎町」から「寺島広小路(現東向島広小路)」まで延長されました。復興と共に人口が増大、通勤・通学の利用客が増え、通勤時間帯には、都電のドアが閉まらない程の満員状態で運行していました。
写真2は、昭和32年(1957)に向島消防署(東向島5丁目)の望楼から水戸街道の新四ツ木橋方向を撮影した写真です。真直ぐに伸びる国道6号を中心に区内北部の復興途上の様子が判ります。

焦土と化していた地に人々が戻り、中小の工場の数は戦前を凌ぐほどに増えました。まだ高い建物は無く、どこまでも遠方を見渡すことができます。戦後の復興に向かって、国道6号には都バスをはじめ多くの自動車が走っています。工場や銭湯の煙突が散見されます。
昭和37年(1962)、東京都は通称道路名検討委員会において国道6号のうち「言問橋東交差点から新葛飾橋まで」の都内を「水戸街道」と命名しました(地図によると千葉・茨城県内の六号も同じ名称)。
日本経済進展と共にモータリゼーション(自動車社会化)が進むと、幹線道路として活躍していた水戸街道は、瞬く間に車の渋滞が始まりました。特に寺島広小路交差点付近は明治通りと共に、東武伊勢崎線の踏切が近く、大渋滞が慢性化し大きな課題となりました。昭和42年(1967)、東武伊勢崎線の高架工事が完成、この課題が解消しました。
写真3は、東武伊勢崎線のガードが完成した直後の水戸街道です。東向島広小路(町名変更により寺島を東向島に改称)交差点付近から四ツ木橋方面を撮影しています。右方向が曳舟駅、左方向が玉ノ井駅(現東向島駅)です。

東武伊勢崎線の踏切による渋滞が解決すると、水戸街道の中央を走る都電が自動車運行の妨げになりました。また、線路内に自動車の通行を許可したことで、都電の定時運行が極めて困難になりました。
昭和44年(1969)、向島の足として活躍してきた都電30番向島線(東向島広小路~須田町間)は廃止されました。
(4)首都高速6号向島線開通
昭和46年(1971)、首都高速道路「7号小松川線」と共に「6号向島線」が堀切ジャンクションまで開通しました。
更に延長し、「6号三郷線」が開通したのは昭和60年(1985)のことです。首都高速向島線が常磐道と接続したことで、遠距離を走る自動車は首都高速道路を利用するようになり、水戸街道の混雑は大部緩和されました。

写真4は、現在の水戸街道です。小梅小学校(向島2丁目)近くの水戸街道に設けられている歩道橋(向島2・3丁目、三囲神社への入口)の上から四ツ木橋方向を撮影しました。
電線類が地中化され、電柱が無くなりました。両側の高層階のビル建設は現在も旺盛に進展し、水戸街道の景色は今なお変貌を続けています。