第1章 曳舟川のはなし
7.曳舟川通りへ(一)

(1)曳舟川の廃止・埋め立て

昭和5年(1930)荒川放水路の完成により、曳舟川は分断されました。川に流れがなくなり、併せて沿岸の工場や民家からの排水による汚染が始まり、遂にはドブ川と化しました。        

 太平洋戦争末期の昭和19年(1944)頃から米軍の空襲が頻発します。昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲(詳細は追って「東京大空襲」の項で紹介)では曳舟川下流域は一部を除き焦土と化しました。多くの住民は疎開し、工場も被災し操業を停止しました。そのため終戦直後は工場や民家からの排水が無く、汚濁していた曳舟川は一時的に川底が見えるほど澄んでいました。川底には、空襲の火災から守るために、投げ込まれた自転車やリヤカー等が沈んでいたのを覚えています。

隅田川も水泳が出来るほど綺麗になっていたので、上げ潮の時には曳舟川にも鮒やハゼ等が上ってきました。祖母が幼い私たち兄弟のために釣りをして楽しませてくれたことを思い出します。

その後、疎開していた人々が戻り、焼け跡にバラックの住居が徐々に建ち、人々の生活が始まりました。また、川沿いにあった工場も操業が再開すると、綺麗になっていた曳舟川は瞬く間に元の「ドブ川」に戻りました。

 東京都議会は昭和26年(1951)曳舟川の埋め立てを採択、都は昭和29年(1954)に廃止を告示しました。

昭和30年(1955)には、先ず旧本所区内の八反目橋から地蔵橋間の約750mを暗渠化し埋め立てました(橋の位置は追って「9.曳舟川の主な橋」の項で紹介)。引続き旧向島区内の地蔵橋から東武鉄道鉄橋までの埋め立て工事が続けられました。写真1は、その時の工事中の様子です。地蔵橋上から上流方向を撮影しました。正面奥が東武鉄道の鉄橋で、その両側は踏切でした。踏切の左手奥には曳舟駅構内の跨線橋が見えます。川の右手には埋設する下水管や工事用資材が並んでいます。

川の左手の四ツ木街道は、大正の頃から曳舟通りと呼ばれていました。古くから墨田区北部の南北に走る唯一の主要道路でしたが、思い起こすと歩道はなく、まだ自動車の往来は少ない時代で、車のすれ違いがどうにかできる程度の狭い道路でした。

一方、国道6号は昭和27年(1952)、荒川放水路に「新四ツ木橋」が完成し、葛飾区と繋がりました。その後の経済発展に伴う自動車社会では、主役の幹線道路になっていきます。

写真2は、昭和30年(1955)頃、言問通りの現とうきょうスカイツリー駅北交差点付近から曳舟川の上流方向を撮影した埋め立て直後の様子です。右の建物は空襲で焼け残った旧言問警察署(押上2ー2)で、現在は、跡地に都営アパートが建っています。道路の中央(川であった部分)は未整地のため車両の通行は出来ません。道路の左側がこれまでの曳舟通りですが、まだ舗装されていません。時々自動車が通った後は、砂ほこりが舞い上がりました。また、雨が降ると一面ぬかるみ、至る所に水溜りができ、難儀をしていたことを思い出します。

昭和32年(1957)に、舗装工事が完了し、道路の中央には、幅四メートルほどのグリーンベルト(緑地帯)が設けられ洒落た道路になりました。

日本経済の発展に伴い、自動車社会が加速度的に進み、曳舟通りの交通量も増えてきました。そのため、当初は道路中央に設けていたグリーンベルトは撤去し、二車線道路に改修され、歩行者安全のため両側に歩道、随所に横断歩道が設けられました。

写真3は、昭和41年(1966)頃の様子です。写真2よりやや上流(北)の位置から撮影しています。

荒川に分断されていた曳舟通りは、昭和48年(1973)に新しい橋が完成、葛飾区四ツ木で水戸街道と合流すると再びう回路として活躍します。

この時、(旧)四ツ木橋は既に廃止されていたので、水戸街道の新四ツ木橋を「四ツ木橋」と改め、曳舟通りの方が「新四ツ木橋」になりました。

 写真4は、写真3とほぼ同じ位置から撮影した約50年後の様子です。信号機が設置されており、横断歩道も雨天の時、白線内に水が溜まらない様に改善されています。沿道の建物の様子もすっかり変わっています。

道路中央の正面に見える建物は、女性センターがあるセトル中之郷マンションです。以前は、関東大震災で住居を失った被災者のための「同潤会アパート」(詳細は追って「関東大震災」の項で紹介)が建っていました。昭和62年(1987)同アパートは老朽化のため建替えられました。

(2)工場の移転・閉鎖

昭和40年(1965)代になると、都心での大気汚染・水質汚濁・光化学スモッグ等の公害や産業用地下水の過剰な汲み上げによる地盤沈下等が問題になってきました。昭和46年(1971)には環境庁(*1)が発足、戦後の経済復興を支えた産業に対する規制が強化されました。

曳舟通り沿いにあったほとんどの工場はこれらの規制に対応するため、都内の多くの工場と同様に地方への移転や工場閉鎖が続きました。その工場跡地は幾多の変遷を経て現在に至っています。

主な工場跡地は次の様になっています。

・ミツワ石鹸 (八広5―10)跡は八広公園及び八広図書館が入っているアパート。

・資生堂東京工場(京島1―38)跡は曳舟文化センター及び曳舟駅前プラザ。

・大日本セルロイド(京島1丁目)跡はひきふね図書館があるマンション界隈・曳舟たから通り及び拡幅した沿道両側。

・永柳コルク(京島1―1)跡はイーストコア曳舟、隣にイトーヨーカドー曳舟店。

・菊美酒造(押上2―22)跡はホンダ。

・日本鉸釘(押上2―21)跡はコカ・コーラボトラーなど。

〈注〉

*1 環境庁は、総理府の外局として設置された。平成13年(2001)に環境省となった。