第1章 曳舟川のはなし
6、明治以降の曳舟川(二)

 (3) 北原白秋と曳舟川

 詩人の北原白秋(*2)をご存知のことと思います。明治末期から昭和初期にかけて「からたちの花・この道・ペチカ・あわて床屋・待ちぼうけ・ゆりかごの歌・砂山・城ヶ島の雨等々」、私たちが子供の頃に唄ったり聞いたりした歌の詞をたくさん作り活躍しました。白秋は曳舟川のほとりを気に入り良く散策していました。出身地の水郷・柳川(福岡県柳川市)に風景が似ていたために故郷に思いを馳せていたようです。明治41年(1908)に、次の様な詩を作り雑誌に発表しました。

  郷土史に詳しい地元の画家小針美男さん(*4)は八広図書館が発行した「子供のための郷土史➂」に『鶴土手橋あたりにアカシヤの並木があったと言われています』と記しています。

  写真1は、鶴土手橋の上から上流を写しました。戦後間もない頃の様子です。

 鶴土手橋は、イトーヨーカ堂・ロイヤルホスト(京島一丁目)がある交差点の位置に架かっていました。白秋の詩はこの辺りを詠んだと思いますが、写真を撮影した年より40年以上前なので景観は大部変わっていると思います。

 小針美男さんの文章は、更に次のように続きます。

『鶴土手橋があった角に、白秋の《片恋》の詩を刻んだ記念碑でも欲しいものですね。・・・(中略)・・・私たちの街にもこうした碑があったら、区民の心にも誇りが生まれてくるのではないでしょうか。こうした芸術を愛する心というのは、子供の頃から育てられていくことによって、高い文化を愛し、育てる街になっていくのだと思います。』

私も同感です。イトーヨーカ堂、又はロイヤルホストがある角の空きスペースに「片恋の歌碑」があれば「文化都市を標榜する墨田区」が更に文化の薫る素晴らしい街になると思います。また、当時の曳舟川界隈が、いかに魅力的な郷愁を誘う景観を呈していたかの証(あかし)にもなるのではないでしょうか。

 (4)古上水から曳舟川へ

 明治43年(1910)、隅田川・綾瀬川・中川等の決壊により大洪水が発生しました。洪水は、江戸時代以前から度々発生していましたが、この年の洪水は過去最大級の被害をもたらしました。政府は、既に計画していた「荒川放水路建設」を実行に移します(詳細は後刻「荒川と荒川放水路」の項で紹介します)。大正2年(1913)に着工し、昭和5年(1930)に完成しました。曳舟川はこの時に葛飾区側と分断されました。荒川放水路には、京成電鉄の鉄橋とその下流側に木製の「四ツ木橋」が架けられました。

明治44年(1911)生れの父が子供時代には、既に「古上水」及び「四ツ木街道(土手道)」は、それぞれ「曳舟川」及び「曳舟通り」と呼ばれていたようです。

(5)墨田の産業と曳舟川界隈

 明治政府の殖産興業政策に沿って、墨田区内には紡績・石鹸・車両・皮革・自転車・時計・陶器・セルロイド・酒造・莫大小(メリヤス)等、様々な産業の工場が相次いで建設されました。明治時代中頃から、曳舟川界隈にもいろいろな業種の工場建設が相次いで始まりました。民家が少なく、長閑な田園地帯であったため、企業は広い土地を安価に求めることができました。また、曳舟川の水運も利用できるため、原材料や製品の輸送にも工場用地に適していました。

 昭和初期の曳舟川界隈は、中小の工場も加わって、工場地帯の様相を呈していきました。当時あった主な工場を曳舟川の上流から順に挙げてみます。

 現在の八広5丁目には「ミツワ石鹸工場(丸見屋)」・「帝国木材(東京木工)」・「レザー製造工社」、八広1丁目には「鳥井陶器製造所」、京島1丁目には「内田工業所」・「富士革布工場」・「資生堂東京工場(写真1)」「大日本セルロイド」・「帝国コルク(永柳コルク)」、東向島2丁目には「日本電線」、がありました。

・三ツ輪石鹸は、現在の「玉の肌石鹸」。

・東京木工は電柱を造っていた。当時の電柱は、全て防腐剤を塗布した木製であった。

・鳥井陶器製造所は、建築用煉瓦を製造。日本銀行や東京駅等には、現在でも鳥井陶器製の当時の煉瓦が残っている。同工場の用地は、関東大震災後に新しく出来た明治通りにより分断された。

・資生堂石鹸工場は、昭和38年(1963)に松竹映画が制作した山田洋次監督「下町の太陽」の舞台になった。

・大日本セルロイドは現在のダイセルで、昭和9年にフィルム部門を独立させ、現在の「富士写真フィルム」を設立した会社。工場の広さは、現在の京島1丁目の凡そ半分を占めるほどであった。

図4は、昭和10年(1935)の帝都地形図「寺島」(平凡社地図出版作成)の図です。

 曳舟川下流域の押上2丁目には「帝国発條」・「極東レジン」・「菊美屋酒造(合同酒精)」・「日本鉸釘」等がありました。

・菊美屋酒造は原料がサツマイモの焼酎を製造。周辺の民家は芋が発酵した臭いに見舞われた。

・日本鉸釘は、主に鉄道レールを枕木に固定する「犬釘」を製造。当時の鉄道レール用枕木は、路面電車を除き全てが木製であった。

 これらの工場の中には閉鎖や倒産した会社もありましたが、多くの工場は太平洋戦争の最中、空襲などで一時操業を停止しました。戦後、工場を復旧し操業再開後は、日本経済の発展に寄与しました。

(6)危険だった曳舟川

 昭和30年(1955)頃まで、曳舟通りは車の通行量が少なく、子供たちの格好の遊び場でしたが、危険と隣り合わせでした。前掲の写真1をご覧下さい。川は両側を土留め用の木製矢板と杭で護岸をしていました。道路には、ガードレールや危険防止用フェンス等は施していません。そのため、子供が川に落ちる事故がたびたび発生し、時には命を亡くすこともありました。この様な場合、今では考えられませんが、世間では「親・子の不注意」「親の責任」としてお互いを戒めあっていました。

現在は、このような事故が起こらないように行政が配慮して施設を整備するようになっており、たいへんありがたいことですが、個々人の危機管理能力は衰えているように思います。

〈注〉

*2 北原白秋(1885〜1942/明治18〜昭和17年)は、詩人・童謡作家・歌人。福岡県柳川市生まれ。「片恋」は明治43年(1910)四月に雑誌「スバル」で発表、大正3年(1913)刊行の詩集「東京景物詩及其外」にも掲載された(平成26年(2014)8月22日付朝日新聞「街プレーバック」より)。

*3 「かはたれ(彼は誰)」は、薄暗い明け方のこと。これに対して薄暗い夕方は「たそがれ(誰そ彼)」。

*4 小針美男は、昭和2年(1927)墨田区生れの画家(孔版画、ペン画でスケッチ)。作品:東京文学画帖、東京風景画集ほか。