(橋の位置は末尾の図3参照)
(1)更生橋(更正橋)(こうせいばし) (八広6―9)
「更正橋交差点」の位置に架かっていた橋です。鐘ヶ淵通りと共に昭和8年(1933)2月に完成しました。
八広小学校(八広5―12)の校庭に「更生橋」と彫られた立派な石製の親柱(写真1)が保存されています。
橋の名の由来は定かではありません。
交差点の歩道橋には「更正橋」と記されています。八広小学校の前身である更正小学校が開校した時に更生橋から現在の「更正橋」に改称されたと伝えられています。
(2)薬師橋(やくしばし) (東向島6―13)
「長浦神社南交差点」の位置に架かっていた橋です。この道は、旧地名の木下川村(きねがわむら・開削前の荒川のほぼ中央)にあった木下川薬師(きねがわやくし)(*1)への参詣道で「薬師道」と呼ばれていました。この道の名が橋名の由来です。薬師道は細い道ですが、曳舟川と交差する数少ない古道です。
写真2は、八広中央通りにある薬師道道標です。道標に記されている内容から、ここに移設されたようですが、元設置されていた場所は特定されていません。
(3)前沼橋(まえぬまばし) (八広1―1)
関東大震災後に都道「明治通り」が開通した時に架けられた新しい橋です。橋の名はこの地が「南葛飾郡寺島村字前沼」であったことに由来します。大正時代の記念すべき橋でした。
現在、この交差点名は明治通り側の信号機にのみ「曳舟川」と表示されており、曳舟川通りの信号機には交差点名の表示が無いままになっています。
(4)鶴土手橋(つるどてばし) (京島1―4)
「地蔵坂通り」から「曳舟たから通り」に接続する道との交差点(イトーヨーカドー・ロイヤル角)に架かっていた橋で、当時としては石造りの大変洒落た橋(写真3)でした。橋の名は、この道が古くから「鶴土手道」と優雅な名前で呼ばれていたことに由来しています。
「鶴土手」の名前は、大昔、この土手付近に「よく鶴が飛来していた」ことに由来すると言い伝えられています。
鶴土手道は、曳舟たから通りを経て香取神社(文花2―5)角で旧平井街道に接続し平井橋に通じています。
鶴土手道は曳舟川と交差する古道のひとつです。
(5)地蔵橋(じぞうばし) (押上2―30)
信号機に「高木神社入口」の表示がある交差点の位置に架かっていた橋です。
写真4は、曳舟川が埋め立て工事中の地蔵橋、写真5は、その親柱です。
万治2年(1659)、曳舟川の起源である本所上水を開削した時に、ここで古い石造りのお地蔵様が掘り出されました。その後、ここに架けた橋をこのお地蔵様に因んで「地蔵橋」と言うようになったと伝えられています。
現在、このお地蔵様は近くの正圓寺(押上2―37)(*2)境内の地蔵堂で大切に祀られています。
写真6は、その地蔵堂です。中央の赤い帽子とよだれ掛けのお地蔵様が約360年前に掘り出された尊像です。
地蔵橋を渡る道は、鳩の街通りを南下、新あずま通りを経て北十間川沿道に接続し、吾嬬神社(後述)に通ずる道であることから、昔は「吾嬬森道」と呼ばれていた古道です。
(6)請地橋(うけちばし) (押上2―20)
コカ・コーラボトラー社(押上2―21)及びマンション「コスモ向島シティーフォルム」(向島4―28)の脇道に架っていた橋です。橋の名は、この地域の旧地名が「南葛飾郡請地村」(その後、向島請地町)であったことに由来しています。この道は古くから秋葉神社(向島4―9)参道へ続いていました。関東大震災後の区画整理事業で出来た「桜橋通り」が完成するまでは、請地村・須崎村(向島4・5丁目)間を結ぶ唯一の古道でした。明治末期に東武鉄道が開通する時、此の道に出来た踏切が東武伊勢崎線2号踏切です。
(7)曳舟橋と桜橋通り (押上2―13)
関東大震災復興事業の区画整理で出来た「桜橋通り」(当時は無名の道。戦後、地元では「墨中通り」と呼んでいた人たちもいた)が完成した時に架けられた新しい橋です。曳舟川に因んで、橋名を「曳舟橋」と命名したことは、橋と共にこの通りへの期待の大きさが伝わってくるようです。
桜橋通りの名称は曳舟川通りや小梅通り等と共に、昭和61年(1986)に命名されました。
墨田区の地図を見ると、この桜橋通りと曳舟川通りに囲まれた現向島1~3丁目の地域は、関東大震災後の復興事業で碁盤の目の様に区画整理が行われていますが、その他の地域は行われていないことが判ります。唯一「小梅通り」(約750m)のみが、曳舟川に平行して旧本所区内に造られています。
桜橋通りの完成に併せて、東武伊勢崎線2号踏切は大踏切へと改造されました。そして、地域の長年にわたる要望であった「東武鉄道の高架化で2号踏切を無くす計画」が令和元年(2019)に着工、現在は、令和6 (2024)年度末の完成を目指して工事が進められています。
☆ 浮世絵に描かれた橋
図1は、江戸時代末期の浮世絵師 初代歌川広重画「名所江戸百景」の内の「小梅堤」です。曳舟川南端の旧小梅村 (押上2・向島1・3丁目) 界隈の様子を写実的に描いています。曳舟川には「曳舟」が描かれていません。
この頃は、既に「小梅の曳舟」は廃止されていたと考えられます。
この絵は「とうきょうスカイツリー駅北交差点」角にある「小梅児童公園」(向島1―33)付近の高い位置から、曳舟川上流を俯瞰するように眺めた絵で、三つの橋が描かれています。手前から八反目橋・庚申塚橋・七本松橋です。
現在、埋め立てられた「曳舟川通り」も、この浮世絵に描かれている曳舟川と同様に、庚申塚橋と七本松橋間の中ほどで緩やかに左にカーブしています。
(8)七本松橋(しちほんまつばし) (押上2―12)
図1の最も奥に描かれている橋です。現在の「すみだ女性センター交差点」の位置にありました。
この橋から東武伊勢崎線に突き当たる直線道路がありますが、以前は曲折した道でした。現在、この道の中ほどにある「中之郷児童遊園」(押上2―15)付近に、有名な「七本松」がありました。橋の名前はこの松に由来しています。
「七本松」の名前は江戸古地図にも記されています。この七本松の通りも極めて古い道で、明治末期に東武鉄道の開通時に「伊勢崎線一号踏切」が出来ました。この道は、北十間川に架っていた「押上橋」を渡り、みずほ銀行押上支店脇の細い道を経て本所に通じていました。京成電鉄開通後の大正時代には押上橋に隣接して「京成橋」が架けられました。押上橋は東京大空襲で焼失しました。
図1の七本松橋の左手沿岸に描かれている屋根は、森鴎外が幼少時に住んだ津和野藩主亀井家下屋敷でしょうか。鴎外旧居もこのあたりです。その先の林は秋葉神社の社叢と思われます。
(9)庚申塚橋(こうしんづかばし) (押上2―2付近)
図1の真ん中に描かれている橋です。関東大震災以前は、言問小学校の西側の道が曳舟川まで続いていました。そこに庚申塚橋が架かっていました。この道は震災後の区画整理で無くなり、現在は橋の位置が定かではありません。「女性センター交差点」と「とうきょうスカイツリー駅北交差点」とのほぼ中間にある横断歩道用の信号機付近と思われます。近くに庚申塚があったと考えられますが、その記録や痕跡はありません。
(10)八反目橋(はっためばし) (押上2―1)
図1の手前に描かれている橋です。現在の「とうきょうスカイツリー駅北交差点」の位置に架かっていました。この辺りは旧地名が小梅(旧小梅町・小梅瓦町など)と呼ばれていたように、梅の木が沢山あったようです。いつの頃か定かではありませんが「八反(*3)梅林(はったんうめばやし)」があったとも伝えられています。八反梅が訛(なま)って「八反目(はっため)」になったともわれており、ここの旧地名が「小梅村字八反目」であったことが橋名の由来になっています。
図2は、明治10年(1878)日本帝国測量部発行の地図です。この頃の古道名と架かっていた主な橋の名を図中に記しました。
曳舟川には主な橋として薬師橋・鶴土手橋・地蔵橋・請地橋・七本松橋・庚申塚橋・八反目橋等が架かっていました。荒川放水路は大正年間に綾瀬川に沿って開削され、まだ記されていません。
図3は、曳舟川が、埋めてられるまで架かっていた主な橋の位置を、現在の地図「すみだガイドマップ」に記しました。
これらの橋の名前を信号機がある交差点に残すことで、曳舟川の史跡に代えることが出来るのではないでしょうか。併せて、古道の名も京都市内の様に大切に残しておくと良いと思います。
〈注〉
*1 木下川薬師は、貞観2年(860)創建、正式名は青龍山浄光寺。荒川放水路の開削により、大正8年(1919)、現在の葛飾区東四つ木に移された。同寺は徳川将軍家の祈願所。歴代の将軍は参拝時に薬師道をしばしば利用していた。写真2の道標は、8代将軍徳川吉宗が大畑村(現八広周辺)の村民に道の要所に建てさせたと伝えられているうちのひとつ。
*2 正圓寺は、応仁2年(1468)創建、常照法印の開基と伝えられる。正式名は海福山正圓寺。ご本尊の釈迦如来と共に、第六天社に奉安されていた薬師如来及び護摩堂の不動明王の三尊が江戸の歴史を伝えている。本堂は太平洋戦争の戦禍にも耐え、区内でも数少ない昭和初期の木造建築として残っている。
*3 8反は、2400坪(1反は300坪)、メートル法では80アール(1反は10アール)。