
「秋葉神社」(写真1/向島4-9-13) は私たちが住む「向島四丁目北町会」の氏神様です。
(一)秋葉神社の由緒
秋葉神社の由緒書より
『秋葉神社の創建は正応2(1289)年と伝えられています。この地を「五百崎(いおざき/庵崎とも)の千代世(ちよせ)の森」といい、千代世稲荷大明神が祀(まつ)られたのが起源です。江戸時代初め、ここで数年修行した善財というお坊さんが秋葉大神のご神影を彫って社殿に奉納して去りました。元禄のはじめ(1690年)頃、修験者の千葉葉栄(しょうえい)師がこのお社で祈願し、ご利益を得ました。葉栄師は元禄15年(1702)に請地村(現在の向島四丁目他)の長(おさ)百姓岩田與右衛門を通じて寺社奉行に秋葉大権現の勧請を願い出ました。時の老中沼田城主(群馬県)本多正永の支援を得て勧請が実現し、秋葉・稲荷両社と称して社殿・神域を造営しました。ご神体は火焔を背負った天狗です。』
(二)絵に見る江戸時代の秋葉神社
図1は、江戸時代末期に斎藤月岑(さいとうげっしん)(*1)著作の「江戸名所図会」の中に長谷川雪旦(はせがわせったん)(*2)が描いた「請地権現宮・千代世稲荷社」です。往時の広い境内の様子が判ります。
絵の下辺に描かれた道は現在の大岩医院前の道路です。右下の鳥居から社殿に至る幅広い道は、大国屋酒店・うなぎの大和田前の道で秋葉神社の表参道です。この鳥居は昭和20年(1945)3月の空襲で倒壊しました。

図2は、歌川広重画「名所江戸百景 請地秋葉の境内」です。秋葉神社が松と紅葉の名所でもあったことが判ります。絵の解説も併せて紹介します。

『秋葉神社は遠州(静岡県)秋葉権現を勧請したので、火の守り神として信仰者が多かった。神社のかたわらに葛西太郎・武蔵屋・大七といった料理屋があったので、江戸時代はこの地を踏む人が多かった。ここの社の前に神泉の松というのがあって、空洞の幹の中から清水が湧くという不思議があった。その水を飲むと諸病がたちまち治るというので、その水貰いでも賑わった。絵にある池は神社の西側にあって5千坪(16500㎡)もあったという。秋は池に映る紅葉の美しさで、杖を引く風流人は相当多かった。この池はつぶされて今は無い。向島花柳界の一角として料亭などが居を構えている。』
(文・宮尾しげを) 』 (名所江戸百景 広重画」集英社発行より)
秋葉神社の境内は約7千坪という広大な社地を有していたと伝えられていますが、この解説からも当時を想像できます。
秋葉神社は氏子を持たない崇敬神社でした。江戸市中の鎮火・火伏の神様として、将軍家をはじめ諸大名・旗本・大奥等の崇敬がありました、更に、江戸市中で火を扱う仕事に携わる多くの人々(料理屋・鍛冶屋・火消・・・等)の崇敬も集め賑わいました。また、神社周辺には、江戸でも有名な名物料理屋が軒を並べて、参拝者を楽しませました。
(三)地図にみる往時の秋葉神社
安政3年(1856)の尾張屋版江戸切絵図・隅田川向島絵図(7.墨堤の桜と隅田公園(一)の項の図1参照)には広い境内の秋葉山が画かれています。当時は神仏習合の時代で、千葉葉栄師はこの地に千葉山満願寺を興し別当(*3)を勤めました。
図3の地図は「復元江戸情報地図」(朝日新聞社発行)から、秋葉神社を中心に抜粋しました。当時の江戸地図と現在の地図を重ねて作っています。中央に広く「秋葉社・別当満願寺」と記されています。

秋葉神社の右側には隅田川から分流している細い古川が記されています。現在は埋立てられ細い路地になっています。神社境内の北西の角(左上角)は言問小学校の南東角にあたります。
明治時代に入り神仏分離令・廃仏毀釈により満願寺は廃寺になりました。また近在の飛木稲荷神社は別当寺であった円通寺から分離され、秋葉神社に移管されました。現在も千葉宮司が秋葉神社・飛木稲荷神社両社の宮司を勤めています。
〈注〉
*1 斎藤月岑(1804-1878/文化元-明治11)は、神田の名主・国学者・画家。
*2 長谷川雪旦(1778-1843/安永7-天保14)は、江戸時代後期の絵師。
*3 別当は、社務と寺務の統括を兼ねた役職。
*4 山本松谷は、報道画家・日本画家。