第2章 曳舟川周辺の歴史<続>
18.明治の政界で活躍した 榎本武揚

首都高速道6号線の「堤通入口」近くにある梅若公園(堤通2-7)に、榎本武揚(たけあき)の海軍中将大礼服を身にまとった銅像(写真1)があります。区内循環バス「すみまるくん」の「榎本武揚像入口」バス停近くです。

 今回は、明治時代に大変活躍した墨田区ゆかりの政治家 榎本武揚(天保7年ー明治41年/1836ー1905)を紹介します。銅像の説明板には次の様に記されています。

               ◇

『武揚は、天保7年(1836)下谷(現在の台東区)の通称三味線堀に生まれました。天性聡明で学問を好み、昌平黌(しょうへいこう/*1)で儒学を、更に江川太郎左衛門(*2)の塾でオランダ語・英語を学びました。
 幕府の海軍伝習所が開設されると入所し、オランダ人教官より洋式海軍技術・蒸気機関・機械製造等を習得、当時未知の学問であった化学まで学びました。更に文久2年(1862)にオランダに留学、国際法規も修めました。
 帰国後、軍艦奉行や海軍副総裁へと昇進、幕府海軍の柱となります。幕府が崩壊するや軍艦を率いて函館の五稜郭にたてこもり薩長軍と戦いますが敗れて捕らえられます。しかし、明治新政府内に彼の人物を惜しむ声が強く、明治五年許されました。当時難問とされた樺太帰属問題解決のため、海軍中将・特命全権公使としてペトログラード(ロシア)に派遣され、みごと交渉に成功します。その後、逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任、枢密顧問官となり、功により子爵を授けられました。
 晩年は向島に住み、墨堤を馬に乗って散歩する等悠々自適の生活を楽しみ、同41年に73歳で死去しました。
 隅田公園内の「墨堤植桜之碑」や多門寺の「毘沙門天」の標石等、武揚の筆跡が区内の所々に残されています。

   平成18年3月          墨田区教育委員会』

               ◇

 武揚のおおよその経歴はわかって頂けたことと思いますが、もう少し深堀してみます。

 武揚は榎本円兵衛の次男として生まれました。父の円兵衛は天文学を志し、伊能忠敬の弟子になり、日本地図(伊能図)作成に参加、その後、11代将軍家斉の徒歩目付(かちめつけ)となり警護を務めました。武揚はこの父の影響で強い幕臣意識や科学への関心をもつ人物へと成長します。

 弘化4年(1847)12歳で幕府直轄の昌平黌(しょうへいこう*1)に入学、儒学を学びました。江川太郎左衛門(*2)からオランダ語、18歳の時、中浜(ジョン)万次郎(*3)から英語を学びました。21歳で長崎海軍伝習所2期生として入学、この時の伝習生目付役は勝海舟(当時34歳)でした。文久2年(1862) 27歳の時、幕命でオランダに留学、船舶の知識・国際法・軍学等を学びました。慶応3年(1867)留学を終え、幕府がオランダに発注した軍艦「開陽」に乗り帰国しました。翌年海軍副総裁に任命されました。この時、勝海舟は陸軍総裁でした。

 慶応4年・明治4年(1868)、勝海舟は西郷隆盛との会談で江戸城を明け渡し、江戸を戦火から守りました。一方、武揚は新政府の元では困窮すると思われた幕臣たちを率いて、新選組の副長土方歳三等と共に軍艦「開陽」はじめとする艦隊を編成し、開拓を目的に北海道に渡りました。しかし、新政府はこれを認めず戦いになり、武揚らは函館五稜郭にたてこもりましたが苦戦します。新政府軍の参謀黒田清隆(*4)は武揚に降伏勧告の使者を遣わしましたが応じず、武揚が大切な書物として携行していた『万国海律全書』を「これは、日本にとって役立つ貴重な書物なので灰にはできない。政府軍参謀に寄贈したい」という書状を添えて使者に渡しました。黒田は大変感激しました。明治2年(1869)、武揚ら旧幕府軍は敗れ降伏しました。

 武揚らは東京で投獄されます。彼らの厳罰を主張する新政府に対し、黒田清隆等は、武揚の知識・才能は日本の近代化に欠かせないと、武揚の助命嘆願に奔走しました。その結果、多くの賛同者を得て、明治5年(1872)特赦により一命をとりとめ謹慎処分となり、更に2か月後には釈放されました。

 北海道開拓長官になった黒田清隆は無罪になった武揚に北海道開拓に協力するようを懇願しました。幕臣であった武揚は新政府の要請に悩みましたが、黒田の熱意と北海道開拓は自らの夢であったことから申し出を受けました。武揚(写真2)は新政府の開拓使として大いに活躍しました。実績を買われた武揚は、海軍中将・特命全権公使となりロシアと樺太・千島交換条約 (現北方領土)を締結しました。その後、伊藤博文・黒田清隆・松方正義など歴代の内閣で入閣し、日本の新しい国造りに多大な貢献をしました。
 

 

 明治30年(1887)に政界を引退した後は、電気学会・工業化学学会・気象学会等々の会長職も務め産業振興にも貢献しました。更に、安定した農業の生産力発展も不可欠との考えから、明治24年(1891)東京農業大学も創設しました。

 政界引退後は、73歳で没する明治41年(1908)まで向島(写真3)で暮らしました。墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたそうです。

 梅若公園にある銅像は大正年間に作成され、元は木母寺の境内に置かれていました。戦争が始まると、金属の供出命令があることを懸念し、心配した地元民が銅像を太平洋戦争開戦前に畑に埋めたそうです。その結果、銅像は供出を免れ残ったという逸話があります。

 新生日本の国造りに、この様な貢献をした榎本武揚は、もっと評価を見直されても良いのではないかと思います。

 向島の「武揚の旧居跡」(向島5-12)は、言問小学校の西側の道を、少し北上した沿道の左角(写真3)に説明板が有ります。

〈注〉
*1 昌平黌は、元禄3年(1690)年に5代将軍徳川綱吉が創設した昌平坂学問所。孔子廟に併せて林羅山が創設した弘文館を移し、聖堂を造営。幕府直轄の学問所。現在の湯島聖堂。

*2 江川太郎左衛門(1801-55)は、江戸幕府の世襲代官。高島秋帆(1798-1866)に学び西洋砲術を教授。品川台場を設計、反射炉を設け大砲を鋳造した。

 中浜万次郎(1827-98)は、土佐(高知県)の漁師の子。天保12(1841)年に出漁中漂流、米国船に助けられ、米国で教育を受け嘉永4(1851)年帰国。土佐藩・幕府に仕え英語・翻訳・測量・航海を教えた。異名 ジョン万次郎。

*4 黒田清隆(1841-1900)は、幕末・明治の政治家。薩摩藩士。戊辰・西南戦争の政府軍参謀。開拓長官として北海道開拓に尽力。大久保利通死後、薩摩閥の中心、農相・逓信相・首相・枢密院議長を歴任。晩年、元老・伯爵。