第3章 曳舟川周辺の歴史<続>
26、旧向島請地町界隈 戦前の様子(2)

渡辺志津子さんのお話から

 今回は押上1丁目(旧向島請地町)在住の渡辺志津子(旧姓桐生)さんから伺った、この界隈の昔のお話をご紹介します。渡辺さんは、前項で紹介した田中稔さんの牛島小学校時代での同級生です。渡辺さんは、現在地で昭和5年(1930)に生まれ育ちました。ご高齢ですが大変お元気で、私の知らない時代のいろいろなお話を伺うことが出来ました。今回は、その中から、東京大空襲があった終戦(昭和20年/1945年)前後のお話しをご紹介します。『』内は渡辺さんのお話です。

 渡辺さんは牛島小学校を昭和18年(1943)3月に卒業しました。
『小学校6年生の時(昭和17年)、修学旅行で伊勢神宮に行きました。その時は、京成橋を渡り、押上の停留所から市電に乗って東京駅まで行きましたよ。でも、戦時中であったためか、前の年と、次ぎの年の修学旅行は実施されなくて、私たちの年だけが行けたのです。そんな時代でしたよ。』

 京成橋は北十間川に架かる四ツ目通りの橋です。京成電鉄押上線が都営地下鉄浅草線と相互乗り入れする前の地上にあった頃の押上駅は、現在のライフ押上店の位置で、駅の改札口を出ると眼の前が京成橋でした(図2)。
 市電は、まず柳島~月島間が大正2年に敷設され、その後、柳島~須田町間が開通しました。
昭和18年(1943)に東京市が東京都に改められ、市電から都電になりました。渡辺さんのお話は、丁度その頃のことです。
 都電は、戦後も都民の足として活躍しましたが、経済成長と共にモータリゼーション(車社会化)が進み、幹線道路は自動車の渋滞が始まりました。道路の中央を走る都電は順次廃止、最後に「柳島~月島間」が昭和47年(1972)に廃止されました。

 昭和17年(1942)、牛島小学校に隣接して本所高等実践女学校の新校舎が完成し、移転してきました。渡辺さんは、牛島小学校卒業後、隣の同女学校に入学しました。近くにあった東武鉄道と京成電鉄の請地駅について伺いました。

 『請地駅は小さい駅でしたよ。女学校時代、戦時中の勤労動員でかり出されて、請地駅から東武電車に乗って玉ノ井駅(現在の東向島駅)迄行きました。空襲があった時は、電車の運行が止まります。そんな時、帰りは玉ノ井駅から押上まで歩いて帰ってきました。そんな酷い目にも遭いました。また、浅草へ行く時も請地駅から東武伊勢崎線に乗りました。駅が近く便利に使っていましたよ。』

 請地駅は東武が昭和6年(1931)に、京成の駅は翌年に乗換駅として開設されました。それぞれの駅は、現在の「新あずま通り」が東武・京成の線路に突き当たった位置(昔はここに踏切があり、京成が都営地下鉄浅草線と相互乗入れ時に、踏切は曳舟駅寄りの現在の位置に移設された)と桜橋通りの東武伊勢崎線ガードの位置(旧2号踏切)との間にありました。東京大空襲でいずれの請地駅も焼失しました。京成は昭和22年(1947)に、東武は昭和24年(1949)に、いずれの駅も再開されることなく廃止されました。

 図1は昭和16年(1941)発行「戦前東京散歩」(人文社)掲載の地図から東武伊勢崎線以北を抜粋転載させて頂きました。

 『牛島小学校時代と女学生時代の通学には、曳舟川に架かっていた曳舟橋を渡って登校していました。女学校二年生の時のこと、登校時はいつもの様に、曳舟橋を渡って行きました。その日には授業中に空襲がありました。帰りには、曳舟橋が焼け落ちているのを目にしました。回り道をして帰って来たことがありました。』

 曳舟橋は、曳舟川に架かっていた橋のなかで、最も新しい橋でした。関東大震災後の区画整理で、桜橋通りが出来た時に架けかけられました。焼失した橋は、終戦後に再度架設されましたが、昭和30年(1955)に曳舟川が埋め立てられた時に無くなりました。現在、曳舟川通りの曳舟橋が架かっていた場所「押上2丁目交差点」の歩道敷石には「曳舟橋跡」の表示が記されています。

『女学生時代の昭和19年(1944)、群馬県の親戚の青年が特攻隊に出征するので、(普段は着ない)和服姿で見送るように言われて、上野駅まで行ったことがあります。出掛ける前に撮った写真があります。大変な時代でした。当時はカメラが普及していなかったので写真館で撮影しました。』

 お話を伺っていて、どれほど多くの青年たちの命が失われたことかと思うと、胸が痛みました。幸いなことに、渡辺さんの親戚の方は飛び立つことなく終戦を迎え復員されたそうです。

 『昭和20年3月10日深夜の空襲の時は、大火の中逃げ回り、京成橋を渡って四つ目通りと浅草通りの交差点角の三菱銀行(現在のUFJ銀行)脇に逃げて助かりました。三菱銀行は鉄筋コンクリート造りだったのですね。その頃、北十間川を利用した舟運が盛んで、川には貨物用の船がたくさん並んでいました。空襲の時、船に避難した人たちが沢山いました。しかし、船に乗った多くの人が亡くなりましたよ。』

 図2も昭和16年発行の「戦前東京散歩」(人文社)の掲載地図から東武伊勢崎線以南を抜粋しました。(戦前の地図には三菱銀行の位置に第百銀行と記されています)

 東京大空襲の本所・向島の惨状は「第2章 3.東京大空襲(一)及び(二)」の項で紹介しましたが、押上界隈でも、この様な悲惨な状況があり、心を痛めました。

 『当時は、映画館がたくさんありました。近くには請地館・柳島館・業平座等です。現在のどのあたりにあったのか? 様子がすっかり変わってしまい判りませんが・・・。』

 映画は戦後の娯楽の中心でした。お話を伺っていて、当時、夏休みの夜、言問小学校の校庭に大きなスクリーンを張った映画鑑賞会が何回か行われました。墨田中学校生時代(1955~58)には、年に一度の映画教室があり、浅草六区の映画館や、錦糸町の本所映画・江東劇場等へ、先生の先導で長い列になって徒歩で見に行ったこと等も思い出しました。近所には向島金美館・向島映画劇場・墨田文化映画館・オデオン座等の映画館もあり、昭和30年(1955)代前半のテレビが普及するまでは映画全盛の時代でした。