第3章 曳舟川周辺の歴史<続>
27、旧向島請地町界隈 戦前の様子(3)

 古くから向島4丁目(旧向島請地町)にお住いであった大國屋酒店の故田村充さんがお元気であった頃のある日、「戦前の向島の様子」を聴かせていただこうとお尋ねしました。田村さんは戦前の昭和5年(1930) 同地で生まれ育った方です。すると田村さんは「良い本がありますよ」と一冊の本、梅田弘子著「私の思い出箱」の本を貸して下さいました。
 本書は、著者が戦前に田村さん宅の並びにお住まいで、子供時代を転居するまで過ごした13年間の思い出を記しています。
 著者の梅田弘子さんは、昭和7年(1932年)に本所区向島請地町(現 向島4丁目)で生れ、昭和5年生れの田村充さんとは幼馴染み(おさななじみ)の方です。
 梅田弘子さんの同著書より、戦前の向島での生活の様子・出来事を抜粋して3回に分けて紹介させて頂きます。 写真及び注釈(*印)は筆者が加えました。

「私の思い出箱」より(一)
秋葉神社のお縁日
 毎月3日と18日は、秋葉神社のお縁日(*1)で沢山の夜店が並び、見世物小屋が立ちます。お縁日は3日より18日の方が賑やかで、春夏秋冬を比べると、夏の夜が一番活気がありました。特にバナナの叩き売りの口上は、多くの人の足を止めさせました。
 縁日の日には普段のお小遣いより多く10銭貰うのですが、あれを買ってこれを買って、あれも見たいし、これもやりたいしと、子供なりに考え工夫したものです。どうしても食べたいのは焼きそばでした(当時、乾麺はあっても今のような生麵は売っていませんでした。縁日でなければ「焼きそば」は食べられなかったのです)。焼きそばは、10銭はお皿に、5銭は小さいお皿に、2銭は経木(きょうぎ)の上に載せて・・・・・子供達は殆ど2銭の経木でした。
 欲しかったのは、ぬり絵でした。縁日で売っているぬり絵は、近くで売っている袋入りと違ってゴザの上に何種類も並べられているその中から、気に入った好きなものを選べるようになっていました。余ったお金で、絵本(3銭から5銭)や飴を買ったり、金魚すくいをしたり、パチンコ(5・6台並べられていました。1銭入れて指で弾いて、はずれでも飴が1個でました。パチンコはこのような物でした)をしたり、時には見世物小屋に入ったり・・・・・。毎月2回このお縁日は、子供達にとって楽しいものでした。

*1 「月次(つきなみ)祭(さい)」のお縁日で、月次祭は現在も毎月3日・18日の午前6時より社殿に於いて行われている。予約なしでどなたでも参列できる。毎年6月3日の月次祭は「縁日開き」と言い、この日には夜店が出る。

小学校も懐かしく
 私が入学したのは、昭和13年(1938)4月、東京市言問尋常小学校(*2)でした。しかし、昭和16年に日本のすべての小学校は、国民学校と呼ばれるようになり母校は、東京市言問国民学校となりました。
 言問小学校は新しい学校でした。私が入学する1年前に出来た学校でした。3年生以上は近くの牛島小学校(*3)からの移入でした。
 1年生は4組ありました。1組と2組は男子組、3組と4組は女子組でした。私は1年4組でした。
ところが2年生になった時、男子高等科が併設される事になり、組替えがありました。
 2組の男子の一部が1組に入り、3組の女子の一部が4組に入ってきました。そして1組は男子組・2組は男女組・3組は女子組と編成替えされ4組はなくなりました。私は2年から2年3組となりました。どの学年もそのようになったと思います。これは3年間続きました。5年生になる時、高等科の生徒は近くに出来た三囲高等小学校(*4)へ移り、いなくなりました。
私達の学年は又1年の時3組だった人達が4組になる事になりましたが、私達の組はそのまま3組となり、1年の時3組だった人達が4組になりました。私達女子組は入れ替わったわけです。

*2 言問尋常小学校 現在の「墨田区立言問小学校」創立は昭和12(1937)年2月1日。関東大震災後に建てたモデル校舎で、東京大空襲でも焼失せず創立当時のままの建物。2022年国の有形文化財に登録された。 
*3 牛島小学校 明治6年(1873)3月に、本所区最古の公立小学校として須崎村(向島2丁目)に設立された。明治14年に現在の本所高校(向島3丁目)の地に移転、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で全焼(鉄筋コンクリート校舎の内部が全て焼失)、昭和21年(1946)4月廃校。同年5月都立本所高等女学校(昭和25年本所高等学校に改称)が移転開校。(牛島学校跡説明板より抜粋)
*4 三囲高等小学校 昭和17年(1942)に後期初等教育の一環として現在の墨田中学校の地に開設され、昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失、その後廃校になった。(墨田郷土文化資料館)

大相撲見物と修学旅行
 国技館(*5 /写真1)といえば大相撲。この国技館は私の住む本所区にありました。今の墨田区で、場所こそ違えJR両国駅の近くでした。
 本所区内に住む小学生は、5年生になると男女共1回は、この国技館に連れて行ってもらえるのでした。テレビのない時代です。ラジオの実況放送で大人や男の子はひいき力士の勝ち負けに一喜一憂していました。お相撲さんの姿を見られるのは、映画を見に行った時のニュースか実際に国技館へ行った時だけです。ですから、女の子もこれは楽しみにしていたのです。「お相撲さんって大きいよねぇ」「屋根がこーんなに丸くなっていてさ・・・・・」等々見学に行った上級生達の会話が耳に入るにつけ、5年生になったら、5年生になったら・・・・・ところが前年に始まった戦争の為、『中止』になったのです。つまらないなぁ、残念だなぁと思っても諦めるほかはありませんでした。
 東京の6年生の修学旅行は『お伊勢さま』(*6)と決まっていました。これも私達の場合は『中止』になったのです。それでは箱根一泊という事になって、参加申し込みの人数等を先生が調べ始められたのですが、又々これも『ダメ』・・・・・。結局『土浦の予科練航空隊』(*7)・・・しかも日帰りで・・・その上男子はゲートル、女子はモンペ着用・・・。
 その日、男子はゲートルで結構きりっと決まっているのですが、女子の方は?? 良い形のモンペなんて・・・モンペは田舎の人が農作業の時に穿くもので、東京の人は穿いた事もなければ作った事もありませんでした。ほんの少し前『おかみ』から非常時用の服装として、女子は普段着にモンペを穿くように通達された事はされていたのですが・・・そんな具合で、だぶだぶのモンペ姿はお互い様・・・女子はそう思ってけなしたり、笑ったりはしなかったのですが、男子の中にあからさまにからかった子がいたのです。結果は女子の集中攻撃に遭い、ほうほうの態で退散しましたっけ・・・だって私達はなんでこんなへんな恰好で修学旅行をしなくてはいけないのか、情けなく思っていたのですから・・・しかも行きも帰りも一般の方と同じ列車でした。一般の方も大勢の生徒と一緒でご迷惑だった事でしょう。東京都言問国民学校第7回卒業生の、これが私達の修学旅行でした。

*5 国技館(写真1) 当時の国技館は回向院の境内に、明治42年(1909)に建設。1万3千人収容のドーム型の建物は「大鉄(だいてっ)傘(さん)」と呼ばれた。(回向院説明板より抜粋)
*6 お伊勢さん 三重県伊勢市の伊勢神宮、正式名称は「神宮」
*7 予科練航空隊 海軍航空隊のための初歩練習・実用教育部隊、土浦は全国の予科練航空隊のルーツ。