「曳舟川通り」(写真1)は国道6号 (通称水戸街道)の迂回路として活躍する交通の要路で墨田区北部(向島地区)のほぼ中央を南北に走る区道です。
次の図1を参照下さい。曳舟川通り(朱線)は、「荒川の土手」を起点として鐘ヶ淵通りと交差する「更正橋交差点」・明治通りと交差する「曳舟川交差点」を経て、言問通りと交差する「とうきょうスカイツリー駅(旧業平橋駅)北交差点」(写真2)が終点の全長約2.7㎞です。
「曳舟川通り」の愛称は昭和61年(1986)、正式に決定しました。この通りは、名前にある様に以前は道路の中央に川幅約9mの「曳舟川」が流れていました。この川は屈曲した自然の川ではなく、直線的な人工の川です。
川の起源は、江戸時代初期に本所・深川(墨田区南部及び江東区西部)地区住民の飲料水供給のために造られた水路(上水)で、その水源は埼玉県越谷市です。
曳舟川の由来
写真3は、曳舟川通り終点の「とうきょうスカイツリー駅北交差点」東角の歩道にある、墨田区が設置した「曳舟川の由来」の石碑です。ここに記されている説明文を紹介します。
『曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治2年(1659)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曽根(かわらそね/現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四つ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。
その後、享保7年(1722)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。
この川が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「サッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものです(写真4)。
また、曳舟川には古くから多くの橋が架けられており、薬師橋、鶴土手橋(つるどてばし)、地蔵橋、庚申橋(こうしんばし)、などの名前が文献に見られますが、この付近(小梅児童公園)にも八反目橋(はっためばし)が架けられていました。この辺りの小梅という地名は、元は梅香原と呼ばれる梅の木の多い地域だったことによるもので、八反目の名も八反梅(80アールの梅林)から来ているとの説もあります
昭和29年(1954)6月東京都告示によって川としての役割は廃止され、昭和30年代を中心に埋め立てられて、道路として整備されました。
平成5年3月 墨田区』 (原文のまま)