大正12年(1923)に発生した関東大震災の復興事業がほぼ完了した昭和5年(1930)、都立横網町公園(横網2丁目)内に、震災の身元不明の遺骨を納め、霊を祀る「震災記念堂」が建設されました。設計したのは、多くの著名な建築物を手掛けた伊東忠太(*1)です。翌年には「震災復興記念館」が完成、関東大震災の全貌が詳しく展示されています。復興記念館及び江戸東京博物館・すみだ郷土文化資料館等で得た情報を含め震災に関する概況を紹介します。
震災記念堂は、昭和23年(1948)に東京大空襲による犠牲者も合祀し、名称が「東京都慰霊堂」になりました。
写真1は、東京都慰霊堂です。本堂及び納骨堂の三重塔は日本古来の建築様式をモチーフにした設計で、耐震耐火の鉄筋コンクリート造りの堅牢な構造です。
(1)関東大震災の概況
大正12年(1923)9月1日午前11時58分、関東南部にマグニチュード7.9の巨大地震が発生しました。加えてマグニチュード7を超える余震が6回も続きました。
最初の地震が発生した時刻は昼食時間の直前で、火を使っていた家庭が多かったこともあり、都内124か所から火災が発生しました。悪いことに、当日は台風が能登半島(石川県)に上陸しており、火災が発生すると折からの強風にあおられて東京はたちまち火の海と化しました。
震災直後の何もなくなった焼け野原の状況写真を見ると、平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災の被災地の惨状と重なり、その時の悲惨なテレビの放映を思い起こします。東日本大震災は津波による被害が甚大であったのに対し、関東大震災は多発した火災による甚大被害でした。
死者行方不明者数は、合せて10万5千人を超えました。東京では70%近い7万人超、その内、旧本所区(墨田区の南半分)だけで全死者行方不明者数の半数にあたる5万4千人もの人が犠牲になりました。 死者の95%以上が焼死でした。特に両国の陸軍被服廠跡(現横網町公園)(*2)だけで3万8千人もの焼死者がありました。地震発生直後、この広場に多くの人たちが避難しました。中には家財を荷車に積んで来た人もいました。そこへ周囲からの延焼の火の手と火災旋風により逃げ場を失い殆んどの人が焼死しました。
図1は、東京市焼失地域地図です。中央の色の濃い部分が焼失した地域です。
現在の墨田区南部(旧本所区)・江東区西部(深川区)・台東区(旧浅草・下谷区)・千代田区(旧神田区・皇居周辺)・中央区(日本橋・京橋区)の全域が焼け野原状態です。
(2)震災後の復興事業
震災後の「復興事業」は震災前の姿に戻す「復旧」ではなく、抜本的な都市改造を目指す「復興」です。 この計画を立案し推進した中心人物が、震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁に就任した後藤新平(*3)です。主な復興事業は以下の通りです。
道路の新設・拡幅と区画整理
復興事業で都内の代表的な幹線道路として造られた道路幅が凡そ50mもある昭和通り(中央・台東区)は有名ですが、墨田区内では幹線道路として、新しく水戸街道・言問通り・明治通り・浅草通り・京葉道路・蔵前通りが出来ました。更に現在の区道、桜橋通り・押上通り・小梅通り・鐘ヶ淵通り等もこの時に出来ました。
江戸時代の開拓時に、碁盤目の様な道路で区画されていた本所地区の既存の道路、二つ目通り(清澄通り)・三つ目通り・四つ目通り・北割下水(春日通り)・南割下水(北斎通り)等は区内の幹線道路として拡幅されました。
江戸時代の開拓以前から陸地であった旧牛島地区(現在の東駒形・吾妻橋界隈)、及び、現在の向島1〜3丁目区域 (桜橋通りと曳舟川通りに囲まれた地域) までが、本所地区の南部同様に直線での区画整理が行われ、幅広い道路になりました。
その結果、新設道路・拡幅道路を合せると、都内の道路面積は震災前に比べ44%も増えました。また、震災前の道路は95%が砂利道で、舗装道路はわずか5%でしたが、復興事業完了後は、舗装道路が72%と大幅に増えました。
しかし、区内の向島4・5丁目及び押上以北の地域は、所々で徐々に拡幅工事は行われつつありますが、現在に至るまで大幅な区画整理は進まず、震災前の斜めの道・細い道・、曲がりくねった道が多く残されています。
大公園の新設
震災直後に、被害の状況を調べた結果、火災の延焼は緑地により食い止められ、広い避難場所で被害が少なかったことが判明しました。このことから、復興事業のひとつとして、三つの大公園を計画し、隅田公園・錦糸公園・浜町公園が新設されました。これらの公園緑地は後世のためにその目的と共に残したいものです。
この公園計画にあたっては、明治以降の日本の造林学・造園学の基礎を築いた本多静六(*4)が後藤新平に乞われて参画しました。
隅田川架橋の耐震化と増設
復興事業では隅田川に架かっていた橋梁にも目を向けられました。白鬚橋・吾妻橋・厩橋・両国橋は、現在の耐震構造の強固な橋に架け替えられ、新たに言問橋・駒形橋・蔵前橋が架けられました。全ての橋はデザインが異なり、隅田川は「橋の博物館」とも言われています。これに伴い、江戸時代から活躍していた「竹屋の渡し(三囲の渡しまたは待乳の渡しとも言っていた)」や「駒形の渡し」等が廃止されました。
瓦礫(ガレキ)の処理
地震により発生した瓦礫は、東京では豊洲の埋め立てに使われました。戦後は一大重化学工業地帯として公害を伴いながらも日本経済発展の一翼を担いました。現在は、築地から市場が移転しています。
また、江戸城外堀の一部埋め立てにも使用されました。戦後、空襲で発生した瓦礫も加え建設されたのが現在の「外堀通り」(都道405号)です。自動車社会になった現在、昭和通り等と共に都心の基幹道路として活躍しています。
横浜市の瓦礫は海の埋立てに使用されました。そこを造成し、開園したのが「山下公園」です。日本初の臨海公園といわれ、現在、市民の憩いの場として賑っています。
当時は瓦礫を被災地域外に持ち出すことなく活用し、現在でもその跡が活躍し続けていることに頭が下がります。
(3)同潤会アパート
関東大震災の被災者救済義援金をもとに「財団法人同潤会」が設立されました。同会は震災で住宅を失った被災者家族のために集合住宅「同潤会アパート」を建設しました。東京都内に14棟、横浜市内に2棟の合計16棟は、耐震構造の鉄筋コンクリート造りで、日本初の先進的な公共賃貸共同住宅として日本中から注目を集めました。
その第1号が、大正15年(1926)、曳舟川沿いの本所区向島中之郷町(現押上2丁目)に完成した「同潤会中之郷アパート」です。区内には、続けて第4号の「同潤会柳島アパート」が本所区横川橋(現横川5丁目)に建設されました。
昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲の時も、不燃化構造の同潤会アパートは焼失することなく、戦後の住宅難時代を迎えましたが、その役目を果たしました。
しかし、老朽化が進み、「中之郷アパート」は昭和63年(1988)に解体され、60年余の歴史に幕を下ろしました。現在は「セトル中之郷」マンションに建替えられ、その3階部分には「女性センター」が入所し区民のために活躍しています。
(4)耐震構造の言問小学校
写真2は、私の母校、言問小学校(向島5丁目)です。震災後の昭和12年(1937)2月に、斬新な鉄筋コンクリート造りの耐震構造モデル校舎として完成、開校しました。開校直後には全国から学校関係者がたくさん視察に来ていたそうです。
戦後、区内小学校の校舎は次々に新しい耐震基準の建物に替りました。しかし、言問小学校の校舎は、耐震補強工事は施しましたが、現在も創立当時のままの姿でしっかりと後輩たちの学び舎として活躍しています。
私は機会ある毎に校舎内外の様子を目にしますが、何十年も前に在学していた当時のままの教室・講堂・階段・屋上・中屋(中屋上)・二宮金次郎翁像等を目にすると、過ごした当時の様子を懐かしく思い起こすと同時に、校舎を誇らしくさえ思えて、顔がほころんできます。同校は平成29年(2017)2月に創立80周年を迎えました。
9月1日は「防災の日」です。「台風高潮、津波、地震等の災害についての認識を深め、これに対処する心構えを準備する」記念の日です。昭和35年(1960)、関東大震災発生の日に因んでこの日が制定されました。「震災復興記念館」の見学をお勧めします。
〈注〉
*1 伊東忠太(1867~1954/慶応3~昭和29)は、日本を代表する建築家、建築史家。橿原神宮・明治神宮・平安神宮・湯島聖堂・築地本願寺等多数の作品を残した。
*2 被服廠は、陸軍の被服を製造する工場。大正8年(1919)に赤羽に移転した後、公園にするための更地を被服廠跡と呼んでいた。
*3 後藤新平(1857~1929)は、岩手県出身の医師・政治家。台湾総督府長官・満鉄総裁・内務大臣・外務大臣等を歴任。東京市長・復興院総裁として関東大震災復興に尽力した。東京都区内は後藤の都市改造に負うところが多い。
*4 本多静六(1866~1952)は、埼玉県出身。日本初の林学者。日比谷公園・明治神宮の森(渋谷区)・東京駅丸の内広場・行幸通り(以上千代田区)・大沼公園(北海道)・大濠公園(福岡市)等多数の公園を設計。日本公園の父。国立公園の設立に尽力した。