第1章 曳舟川のはなし
2. 本所上水(二)

  (3)深川・築地の開拓

話は前後しますが、天正18年(1590)、徳川家康は江戸城を居城に定めました。この時、重要な物資のひとつ「塩」を行徳(千葉県市川市)の塩田に求めました。ところがその輸送の船は、東京湾奥が砂州や浅瀬が広がっているため、沖合を大きく迂回しなければなりません。そこで家康は小名木四郎兵衛に、最短距離で輸送出来る運河造りを命じました。これが、江東区を東西に横断する、隅田川と中川を結ぶ「小名木川(おなぎがわ)」です。

小名木川の開削と同じ頃、深川八郎右衛門にはこの運河の北側の開拓を命じました。こうして開拓された地域が深川村で、現在の江東区(旧深川区)の始まりです。この運河や村の名称は開拓責任者の名前に由来しているのです。

明暦大火後に始まった本所の開拓時には、既に小名木川の開削は終わり、深川の開拓も着手されていました。

また、本所の開拓と時を同じくして築地(中央区築地)の開拓も行われました。築地本願寺の由緒には次の様に記されています。

『浅草(現在の日本橋横山町あたり)にあった西本願寺(本山は京都市)の別院は明暦の大火で焼失しました。幕府は区画整理のため西本願寺を同じ場所に再建させず、代替地として八丁堀の先にある浅瀬を与え、そこを開拓して再建するよう命じました。佃島の門徒たちが中心となり浅瀬を埋立て、焼失後、20余年を経て現在地に本願寺が再建されました。』

このような経緯からこの地域一帯を「築地(つきじ)」と呼ぶようになりました。

徳川幕府は350年前の江戸時代に江戸の将来を見据えて、壮大な都市造りを行っていたかと思うと驚きです。

(4)本所上水の開削

 明暦大火の2年後、万治2年(1659)、幕府は開拓された本所・深川地区に移住する人々の飲料水を確保するために 本所上水の開削に着手しました。

 幕府はこの6年前の承応3年(1653)に羽村(東京都羽村市)の多摩川取水堰から四谷大木戸(新宿区)の水番所までの間、総延長約43㎞、水源との標高差約100mの「玉川上水」を玉川庄衛門・清衛門兄弟により、わずか1年の工期で完成させています。しかし、本所上水の総延長距離は玉川上水の約半分と短い距離ですが、水源との標高差が10mに満たず大変な苦労があったことと思います。

本所上水(亀有上水・白堀上水とも言われていた)は、先ず亀有(葛飾区)の中川に設けた「亀有溜井(かめありのためい)」を水源として開削を行い、亀有上水(約8.5㎞)を完成させました。

その後、元荒川に設けた越谷の「瓦曽根溜井(かわらそねのためい)」(埼玉県越谷市瓦曽根)を新たな水源とし、既に開発されていた葛西用水(現東京葛西用水)の東側に並行して南下、現在の草加市、八潮市、足立区大谷田経由で、葛飾区の亀有上水に接続し、現在の曳舟川親水公園を経て墨田区に入ります (本所上水の水路は、「序章 曳舟川はどこに 2.曳舟川上流の現状」の「曳舟川(本所上水)水路図」を参照)。

小梅から先は、横川に並行して法恩寺(太平1丁目)際までが本所上水で、総延長は約23㎞あります。ここから先の本所・深川地域には木製の「樋(木製のパイプ)」を埋設し、各地に給水しました。

これを裏付ける記録が「西方村旧記」(越谷市史編纂室1981)にあります。そこには次のように記されています。

『延宝3年(1675)に本所上水の元圦(もといり)を瓦曽根溜井に設け、亀有で接続させた』

この記録により、この年に越谷・瓦曽根溜井から本所法恩寺際までの「本所上水」が当初の計画通りに完成したことになります。万治2年(1659)に着工して16年後のことです。飲料水を少しでも早く供給するために、上水を短期間で造る必要があったことから、「亀有溜井」で取水する「亀有上水」を先に造ったと考えられます。幕府はこうして移住させた人たちに飲料水を供給しました。

(5)本所上水が古上水に

 この様な経緯を経て完成した上水ですが、水源と本所地区との標高差が少ないために水量の供給不足が発生、また、大雨が降ると、洪水により溢(あふ)れた汚濁水が上水に流入し、良質な飲料水を供給できないこと等の問題がしばしば発生しました。(西方村旧記)

また、開拓地の本所は水はけが悪かったため、転出者が続出することもありました。様々な問題があり、天和3年(1683)、上水は一時廃止されましたが、元禄元年(1688)には再開されるという様な時期もありました。(徳川実記)

やがて、本所・深川の地に井戸の開発が進んだこと等もあり、上水への依存度が徐々に少なくなりました。最終的には享保7年(1722)、上水は約60年の役目を終えて全面的に廃止になりました。この時、小梅から法恩寺際までの間は埋め立てられましたが、小梅以北の上流は、水路として残され、その後は古上水と呼ばれて農産物の輸送等に使われました。8代将軍徳川吉宗時代のことです。(葛西用水 曳舟川をさぐる・上水記・葛西誌・新編武蔵風土記等)