(1)墨堤の桜
「隅田公園」は、隅田川を挟んで墨田区側と台東区側に跨(またが)っています。東都有数の桜の名所で、日本さくら会の「さくら名所百選」にも選ばれています。隅田川の墨田区側の堤(つつみ)を特に「墨堤(ぼくてい)」と呼び、古い歴史を有しています。
南葛飾郡誌(*1)には「隅田堤(墨堤)」について次の様に記されています(意訳)。
『隅田堤の前は葛西堤、俗に大堤と称した。隅田(現墨田2・5丁目)・寺島(堤通)・須崎(向島5丁目)・小梅(向島1・2丁目)の四町村にわたり、その長さが2,100間余(約3.8㎞)、詩人は之を墨堤ともいい「10里の長堤(約40㎞/誇張した表現)」と称えた。また、墨堤が築かれたのは、室町時代後期(1500年代中頃)で、当時は、墨堤のうち寺島以北を「隅田堤」、須崎以南を「牛島堤」と区別して呼んでいた。』
武島羽衣作詞の「花」にも『錦織りなす長堤・・・』とありますね。
写真1は「墨堤植桜の碑」です。この石碑には墨堤の桜の由来が詳しく記されています。
隅田公園の入口近くにある、名物「長命寺の桜餅」で有名な「やまもと本店」(向島5丁目)の左隣りにあります。明治20年(1887)に設置されました。

この碑の篆額(てんがく/碑の上部に篆書体の文字で彫られた題字)は郷土の偉人・榎本武揚(*2)の筆によるものです。
この桜並木の歴史は江戸時代に遡(さかのぼ)ります。1650年代の頃、4代将軍家綱が常陸の国・桜川村(現在の茨城県稲敷市桜川)から取寄せた桜の苗木を、「将軍の隅田川御殿」近くにあった木母寺(堤通2丁目)辺りに植えたのが始まりとされています。
享保2年(1717)、8代将軍吉宗は木母寺から南の墨堤に桜100本を、更に9年後、桜・柳・桃を各150本植えました。この目的の一つは、庶民のための憩いの場、即ち行楽地を造ることです。同じ目的で飛鳥山公園(北区)や八ツ山橋(港区)にも桜の名所を造りました。二つ目の目的は、大勢の花見客の往来で、墨堤の地固めを図ることでした。幕府も考えましたね。以来、安政元年(1854)までに地域の篤志家の協力も得て、700本の桜が三囲神社(向島2―5)まで植えられました。この間、大洪水での流失等がありましたが、多くの有志の協力があり、補植して江戸の「桜の名所」としての地位を確立します。
図1は、安政3年(1856)尾張屋清七発行「隅田川向嶋絵図」(観光用)です。元の絵図は、題字の通り南の方角を上に描いていましたが、逆にして北の方角を上にして判りやすくしました。(図中のゴシック文字は筆者の補筆)

図には、「墨堤の桜並木」は、北が木母寺・水神(隅田川神社)近くから、南は水戸殿(旧水戸徳川邸)(*3)の屋敷手前まで描かれています。当時の桜並木は2㎞以上もあったようです。
この頃、牛の御前(牛嶋神社)は弘福寺と墨堤の間にありました。
写真2は、旧牛嶋神社があった場所に設置されている「牛嶋神社旧址」の碑です

牛嶋神社は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災により社殿を焼失、現在の旧水戸徳川邸跡に遷座、跡地は墨堤の拡幅に充てられました。
墨堤通りが、現在も絵図と同様に、牛の御前北側(少年野球場の辺り)でクランク状になっています。よく見ると、図1の下辺の水戸殿と北十間川との間の道も、曳舟川手前でクランク状なのは現在も同じです。
隅田川から分流している古川は、現在は埋立てられて、鳩の街通り裏の細い路地になっています。
桜並木は、明治時代になって徳川家により、水戸徳川邸(向島1丁目)正門そばの枕橋まで延長し植樹されました。こうして墨堤の桜並木は一層魅力を増し、今日に至っています。
(2)明治時代の墨堤
写真3は、明治初期の墨堤です。
現在は首都高速道路の高架で、桜並木や隅田公園の景観はすっかり様変わりしています。

東都の名所「墨堤の桜並木」を描いた絵は沢山ありますが、中でも「常夜灯」を墨堤のランドマークの様に好んで描いている絵が多くあります。この常夜灯は牛嶋神社の墨堤からの入口に設置され、神社の目印になっていました。
図2の絵はその一つです。三代目歌川広重が、明治時代に描いた「東京開化36景 隅田堤満花の図」です。絵の右手「常夜灯」の土手下に牛嶋神社がありました。
常夜灯の正式名は「石造墨堤永代常夜灯」(いしづくりぼくてい えいたいじょうやとう)で明治4年(1871)に設置されました。

写真4は、現在の「常夜灯」です。
当時とは位置が少し変わり、高速道路を背にして景色も変わりましたが、図2に描かれていた当時のままの常夜灯です。
常夜灯が、今でも墨堤の観桜に一役買っているのかと思うと、何となくほっとして心が和みます。

墨堤を語る時、欠かせない歌があります。明治33年(1900)に発表された武島羽衣(*4)作詞・滝廉太郎(*5)作曲の「花」です。
春のうららの隅田川 上り下りの船人が
櫂(かい)の滴(しずく)も花と散る 眺めを何にたとうべき
見ずや曙 露浴びて 我に物言う桜木を
見ずや夕暮れ手をのべて 我さし招く青柳を
墨堤の春を詠った日本を代表する名曲で多くの人々に慕われている叙情歌です。
「墨田区民の愛唱歌」にも指定されています。私たちの郷土の誇り、先人たちが造り、守ってきた「東都の名所」をこれからも大切に維持・保存・発展させ、未来の子供たちに残したいものです。
〈注〉
*1 「南葛飾郡誌」は、大正12年(1923)に当時の東京府南葛飾郡小松川町が発行した郷土の歴史書。発刊当時は旧向島区も南葛飾郡。
*2 榎本武揚(1836~1908)は、東京御徒町出身、幕末の幕臣。明治期の外交官、政治家。函館戦争に敗北後、明治政府に仕え文部大臣・外務大臣等を歴任。邸宅は向島5丁目にあった。
*3 旧水戸殿は、水戸徳川家下屋敷。元禄6年(1693)に幕府から拝領。明治には本邸。因みに、旧上屋敷は現東京ドーム(文京区)周辺一帯で、「小石川後楽園」は上屋敷の日本庭園。
*4 武島羽衣(1872~1967)は詩人。他に「美しき天然」等も作詞。
*5 滝廉太郎(1879~1903)、作曲家。代表作のひとつ「花」は組曲「四季」の中の第一部。他に「荒城の月」「箱根八里」、幼稚園唱歌に「はとぽっぽ」「お正月」等。23歳の若さで病死。