第2章 曳舟川周辺の歴史
14. 利根川の痕跡

(1)墨田区に利根川?
 飛木稲荷神社(押上2-39)境内にある「飛木稲荷のいちょう」の説明板(墨田区)には、次の様な記述があります。

『・・・江戸時代以前、このあたりは瀬替以前の利根川の河口で、川の運ぶ堆積物により陸地化が進んできたところで、葛西地域の西の海岸線の一部となっており、平安・鎌倉時代あたりから、後の本所・向島の境ともなる古川沿いの自然堤防となっていたと推定されます。・・・』(抜粋)

 図1は、墨田区史前史に掲載されている「鎌倉時代の江戸下町推定図」です。墨田区・江東区・台東区・文京区にあたる地域が描かれています。(文字は筆者が補筆)

 この図によれば、現在の墨田区内の主な陸地は南葛飾郡寺島(現在の東向島北部)と牛島(向島以南)及びその東側に「洲」(請地・押上あたり)があっただけで、その他は江東区も含めて全て東京湾の浅瀬であったと推定されています。その寺島と牛島の間に関東地方最大の大河・利根川(図中〇の囲み)が東京湾に流入しています。
 古くは島であった寺島は、既に陸続きです。牛島は大きな島ですが、現在では牛島の地名はなく牛島神社にその名前を残すのみです。牛島とその周りに洲として広がっていった地域が、現在の牛島神社の氏子として現在に至っているのでしょう。
 牛島の左が現在の隅田川にあたるようですが、当時は利根川と書かれている方が本流なのでしょう。では、この利根川は区内のどこを流れていたのでしょう。 
 区内を歩き回っても、墨田区の現在の地図を見てもその痕跡らしきものは見あたりません。

(2)古い地名
そこで利根川であった位置を特定できる裏付けになりそうな地名を,古い地図から探し出しました。
図2は明治初年の実測図(沈みゆく東京より)で、墨田区史から抜粋した図です。
                       (図中の太文字及び文字地名は筆者が補筆)

・図中の右辺中央から下辺中央への斜めの流れは、江戸時代初期に開削された曳舟川。
・曳舟川上流には鶴土手橋が架かっている (イトーヨーカ堂・ロイヤル角の位置)。
・鶴土手橋を渡る古道は、当時は鶴土手(道)と言われていた(現在の地蔵坂通り)。
・曳舟川の下流には地蔵橋が架かっている。現在の高木神社(*1)入口交差点(押上2-31)の位置。
・地蔵橋を渡る道は吾嬬森道(あずまもりみち)(鳩の街通りから南下する道)と言い、北十間川に架かる十間橋(じっけんばし)の所で、吾嬬神社(立花1-1)への道に繋がっている。
・吾嬬森道のすぐ南隣には古川が流れていた。今は埋め立てられて細い路地になっている。この道は墨田区が成立する前の旧本所区と旧向島区との区境になっていた。

 鶴土手道と古川の間には寺島村「字中堰」「字新田」及び「字深瀬入」の地名があります。その地名の由来についても考えてみました。
・鶴土手は、当時の南葛飾郡寺島村の土手で、その南側は川であったのではないか。
・「字中堰」は、この辺りには川からの流水量調整の堰があった地域ではないか。
・「字新田」は、上流から流れてきた土砂が堆積して出来た河川敷を開墾して新しい田んぼにした地域ではないか。
・「字深瀬入」は、この辺りは川底深く、早い流れ「深瀬」であったのではないか(浅い川は「浅瀬」と言う)。
 また、この辺りの流れが「急流ではなかったか」と推測できる現象があります。
万治2年(1659)、本所上水(曳舟川)の開削時に、古いお地蔵さまの石像が掘り出され、正圓寺(押上2-37)境内の地蔵堂に安置されていることは、第1章の「9.曳舟川の主な橋 (5)地蔵橋」で紹介しました。このお地蔵様について、私は正圓寺の住職・梅岡純義様から次の様なお話を伺いました。
 「このお地蔵様のお顔が、滑らかになっているけれど、昔、掘り出された場所は、長い間急流であったのではないかと思う」
 地蔵尊が掘り出された場所が、急流であったことを意味する地名「字深瀬入」と符合します。

 正圓寺は応仁2年(1468)室町時代の創建と伝えられています。この頃の古川は既に川幅は狭く水量も少なかったと考えられます。掘り出された場所が、急流であった時代から川底にあり、長い間、急流にさらされていたと考えると、地蔵尊は鎌倉時代、或いはそれ以前に造られたということなのでしょうか。

(3)大河はここに
  図1・図2から、鶴土手と古川の間が利根川と推測できるのではないでしょうか。
この利根川の河川敷は、上流の流路等の変化により水量が減り、鶴土手の方から徐々に陸地化し、川幅は細くなり、最後に古川として残ったのでしょう。
 このことを想定できる根拠として、地域の氏神様に違いがあります。同じ旧寺島町でも、鶴土手道(現地蔵坂通り)北側の氏神様は白鬚神社(東向島3-5)です。それに対して土手の南側の地域の氏神様は高木神社(押上2-37)なのです。
白鬚神社の創建は古く、平安時代中期の天暦5年(951)と伝えられています。この頃には寺島が村として既に存在していたと考えられます。
 一方、高木神社は第六天社と称して室町時代中期、応仁2年(1468)に創建と伝えられています。白鬚神社創建からおよそ500年の間に、鶴土手南側の河川敷は陸地として固まり、新しく田を開墾し、新田になったのでしょう。高木神社は、この新田地域の氏神様として祀られ、今日に至っているのだと思います。
 これらのことから「旧利根川は鶴土手道と古川の間」に存在していたと推定出来そうです。

図3は、明治時代初期の図2に相当するエリアを含めた現在の地図です。

 ここに、推定される旧利根川の位置太線で朱記しました。
旧鶴土手橋(○印)から旧地蔵橋(○印)隣の古川までの川幅は450mあります。
現在の四ツ木橋が架かる荒川に近い川幅の大河です。隅田川の川幅は桜橋付近で約150m程ですから、旧利根川はその三倍の川幅の大河であったと想像できます。
昔からの名称が地名や橋・道等に残してあると、郷土の歴史を紐解く上で大きな裏付けになります。
室町時代後期の1500年代中頃から隅田川の多発する洪水対策として墨堤や日本堤(台東区)が出来ているといわれていることから、現在の地形の礎は、この頃に築かれていたのでしょう。

(4)古隅田川
 「南葛飾郡誌」にある「隅田川流域の変遷」の記述を紹介します。

『室町時代初期の書「義経記(ぎけいき) (2)」に「ここに坂東と言う名の大河がある。この水源は群馬県利根の藤原と言うところで、下流は隅田川という」とある。これは利根川の下流は今の古隅田川をいったのであろう。・・・・(中略)・・・・
 太田道灌が江戸城を築いた頃の文明19年(1487)の書「北国紀行」に「隅田川の東岸は下総の国、西岸は武蔵の国で、利根川と入間川(荒川の異名)の合流する所に古くから渡しがある」は隅田村(鐘ヶ淵付近)辺りで合流していたとみえる・・・』(抜粋/意訳)

 現在の隅田川の上流は埼玉県秩父の荒川ですが、「義経記(ぎけいき)」によると、群馬県の藤原から流れ出す利根川の下流が当時の隅田川であるとのことです。
群馬県から墨田区まで、利根川はどのように流れていたのでしょうか。
 利根川の下流が隅田川であった証拠は、いろいろなところに残されており、古い利根川の川筋をたどることができます。
 埼玉県春日部市に、在原業平の立派な「都鳥の碑」や、小ぶりの業平橋、そして梅若塚があります。これらは古隅田川(ふるすみだがわ)沿いにあります。葛飾区と足立区の境界は(大変)複雑に屈曲していますが、これは古隅田川の跡です。
 当時の利根川は埼玉県の加須あたりで南に曲がり、現在の大落(おおおとし)古利根川、春日部の古隅田川(今の流れとは逆行している)、岩槻から元荒川、越谷で中川、足立・葛飾区境を流れ足立区の牛田(図1)あたりで入間川(荒川の異名)を併せ鐘ヶ淵、飛木稲荷神社、吾嬬の森と流れていたのです。

〈注〉
*1 高木神社(押上2-37)は、正圓寺境内に「第六天社(だいろくてんしゃ)」として応仁2年(1468)に創建と伝えられている。明治初期の神仏分離制度により、別当寺の正圓寺から高木神社として分離した。旧寺島新田の鎮守。
*2 義経記は、室町時代の全八巻の軍記物語。「義経物語」「判官物語」ともいう。作者不詳。