第1章 曳舟川のはなし
1. 本所上水(一)


曳舟川の起源は「本所上水」であったことは前号で述べた通りです。
そこで、本所上水の歴史について調べました。

(1) ことの発端は明暦の大火

 徳川氏により江戸に幕府が開かれて半世紀後、4代将軍家綱の時代、明暦3年(1657)1月18日に本郷(文京区)が火元の大火災が発生しました。「明暦の大火」俗にいう「振袖(ふりそで)火事」です。江戸市中の3分の2を焼き尽し、死者は10万人を超えたと言われています。

 江戸城の天守閣もこの時に焼失、以後、今日まで天守閣は再建されていません。現在は皇居東御苑に天守閣の石垣のみが当時のまま残されています。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われていたほど、江戸は火事が多発していましたが、中でも「明暦の大火」は江戸時代最大の被害がでました。

両国橋と新大橋

 明暦の大火まで、大川(隅田川)には、「千住大橋」のみしか架かっていませんでした。江戸防衛上の理由からです。そのために明暦の大火の際は、大川により逃げ場を失い、多くの焼死者が出ました。

 寛文元年(1661)、特に焼死者が多かった浅草橋近くの隅田川に、2番目の橋として「大橋」を架けました。その後、大橋は武蔵の国と下総の国(当時、隅田川以東は下総の国)を結ぶ橋と言うことから両国橋と呼ばれました(当時の橋は現在の位置よりやや下流)。貞享3年(1686)に国境が変更され、本所・深川界隈は武蔵の国になりましたが、橋の名称「両国橋」はそのまま残りました。

 図1は、歌川広重(*1)の名所江戸百景の内「両国橋大川ばた」です。「両国広小路」(中央区東日本橋)から本所方面を望んだ景観で、「百本杭」(*2)が描かれています。この橋は安政5年(1858)に完成した3代目の橋です。明治37年(1904)に、現在の位置に鉄製の両国橋が架けられました。
元禄6年(1693)、両国橋の下流に、もう一つの大橋が架けられました。これが新大橋です。隅田川では3番目に古い橋にもかかわらず、現在でも「新大橋」の名がそのまま残っています。

図1 両国橋大川ばた(歌川広重画)
図1 両国橋大川ばた(歌川広重画)

 将軍家綱は、明暦の大火による無縁の亡骸(なきがら)を弔う「万人塚」を両国の地に造営しました。これが回向院(えこういん)(両国2丁目)のはじまりです。正式名称は「諸宗山無縁寺」で、現在も多くの参拝者が訪れています。

(2)本所の開拓

 幕府は町の復興と防火・防災対策の大事業を行います。耐火建築として土蔵造りや屋根は瓦葺を奨励します。また、火災が発生しても被害の拡大・延焼を防ぐために「道路の拡幅」や火除け地としての「広小路」を随所に設けました。現在でも広小路の名残が「上野広小路」の様に地名として残っています。これらの土地を確保するためには、江戸市中に住んでいた人々を他の地に移住させる必要があります。幕府はその移住先として、東京湾奥の浅瀬、湿地帯であった地域の埋め立を計画します。その一つが本所及び深川地区の開拓です。

 本所地区の開拓にあたり、幕府は本所築地奉行を設けます。奉行には徳山五兵衛(*3)及び山崎四郎左衛門を任命し本所地区の開発はスタートします。

 開拓地にはまず、物資輸送に舟を用いるための運河を設けます。

 運河は、東西方向に、江戸城から見て縦方向の「堅川」を隅田川から中川まで開削しました。開拓地の中央部には南北方向に、江戸城から見て横方向の「横川」(現在の大横川親水公園)を開削しました。

 横川の約一㎞東側には、並行して「横十間川」(現江東区との区境)を、北側には東西方向に「北十間川」を開削しました。当初、隅田川に接続する西側の水路は源森川と呼び、木材の輸送に用いていました。

 これらの水路から掘り出した土砂は両側の湿地の埋め立て盛り土になります。

 埋め立てた本所・深川地域には、川に平行して東西・南北に碁盤の目の様な区画で道路を設けました。江戸城に近い隅田川沿いの道から南北に「一つ目通り」(現在の国技館通り)、次の道を「二つ目通り」(現在の清澄通り)、以下順に「三つ目通り」「四つ目通り」・・・と名付けました。

 堅川には、それぞれの道のための橋を架けました。橋の名前は、通りの名前に合せて隅田川に近い方から「一ツ目之橋」「二ツ目之橋」「三ツ目之橋」・・・と順に名付けました。その後、「一ツ目之橋」は「一之橋」、「二ツ目之橋」は「二之橋」、「三ツ目之橋」は「三之橋」・・・の様に詰めた名称になり、現在もこの名称が残っています。通りの名称も「三つ目通り」「四つ目通り」は現在も残されています。「五之橋」には現在「明治通り」(旧五つ目通り)が通っています。

 一方、堅川に平行して造った東西方向の主要道路には、雨水や掘り出した土砂から滲み出た水等を集めて河川に放流するために道の中央に水路を設けました。それが「南割り下水」(現在の北斎通り)及び「北割り下水」(春日通り)です (下水とは「上水(飲料水)ではない」ということ)。

 現在の墨田区南部(旧本所区)及び江東区西部(旧深川区)の道路が碁盤の目の様に整然と区画され、直線の道路が張り巡らせている起源は、この開拓の時にありました。東京スカイツリーの展望台から南の方角、錦糸町方面を見ると、古都京都の町並みの様にそれは見事に区画された直線道路の様子を眺めることが出来ます。

 幕府は、こうして出来た開拓地に、大火以前は江戸市中に居を構えていた大名屋敷・武家屋敷・寺院や町人たちを移住させました。

 図2は、文久3年(1863)に発行された尾張屋版江戸切絵図「本所絵図」です。図中の直線的な水路・道路のある地域が明暦大火後に開拓されました。

 一方、隅田川と源森川の沿岸、本所北西部(図中の左上)には屈曲した道・斜めの道や斜めの土地など開拓地と異なった地域があります。ここは古くから陸地であった「牛島」(現在の吾妻橋及び東駒形あたり)の名残りと考えられます。大正12年(1923)に発生した関東大震災後の区画整理により、この地域も直線的な幅広い道路になりました。
本所築地奉行として功績があった徳山五兵衛邸宅跡も、地図中の〇印(現在の石原一丁目)の位置に記されています。

図2
図2

〈注〉
*1 歌川広重(1797~1858)は、本姓は安藤、江戸後期の浮世絵師。作品は東海道五十三次他多数。ゴッホ等西洋画家にも影響を与えた。
*2 百本杭は、隅田川は水量が多く、湾曲がきついため流れが速く、両国橋北側の川端に浸食を防ぐため、流れを和らげる杭を沢山打ち込んだ、この杭のこと。荒川放水路の完成により流れは改善され、杭は必要なくなった。
*3 徳山五兵衛重政は慶長19年(1614)静岡生まれ。万治3年(1660)、本所築地奉行に任じられた。12年にわたり本所開拓に尽し、その後、勘定奉行。元禄年間に75歳で病没。死後、邸内に鎮座していた稲荷社に本所開拓の大恩人・五兵衛を祭神として合祀、徳之山稲荷神社(石原1丁目)として現在も大切に祀られている。