第1章 曳舟川のはなし

3、江戸時代の曳舟川(一)

 (1)古上水に「曳舟」

上水としての役割を終えた享保7年(1722)以降、古上水の水路は運河として農作物等の輸送に使われました。記録がないので定かではありませんが、早い時期からであったと考えられます。

古上水の川底が浅かったことから、輸送用の舟は舟底が浅く平らなサッパコと呼ばれた田舟の様な舟が用いられました。舟の移動には櫓を使わず、舳先(へさき)に綱を結び、他方の端を輪にして人が肩にかけ、土手道を歩いて曳きました。これが曳舟です(序章 1.曳舟川通りとは「曳舟川の由来」参照)。

古上水の土手道は、通称四ツ木街道と呼ばれていました。江戸市中から水戸方面に行く多くの旅人は、小梅~亀有間はこの四ツ木街道を利用していた様で、大変賑っていました。

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当時の水戸街道(以下旧水戸街道)は、日光街道の脇街道と言われ、起点が千住宿(足立区千住)でした。旧水戸街道(*1)は千住宿を出て最初の橋「水戸橋」を渡り、亀有を経て最初の宿場が「新宿(にいじゅく、当時はあらじゅく)」(葛飾区新宿)です。現在は、大正年間に開削された荒川(*2)により分断され、道は繋がっていません。

旧水戸街道は、新宿の手前の亀有村で古上水と交差しています。

亀有までは、日光街道を北上し千住宿を経て旧水戸街道を利用する「千住コース」より、隅田川に架かる大川橋(吾妻橋)を渡り、小梅で左折し古上水土手道の四ツ木街道を北上して亀有まで行く「四ツ木コース」の方が近いため、水戸方面へはここを通る旅人が多かったようです。

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亀有を過ぎると直ぐの中川の先が「新宿」の宿場町です。この中川の渡しを「新宿の渡し」と言います。この宿場の先で、現在の水戸街道(国道6号)に接続します。成田街道は、その先で水戸街道から分れて、「柴又の帝釈天」で有名な題経寺(葛飾区柴又)や、遠くは「成田不動」の新勝寺(千葉県成田市)に通じます。

新宿の宿場は水戸方面の旅人や成田街道を行く参拝客・行楽客で賑いました。

 図1は、葛飾区発行の区内地図に当時の名称を朱記しました。

四ツ木コースの古上水では、旅人を乗せる「曳舟の遊覧」に人気がありました。長閑(のどか)な田園地帯の船旅は楽しみのひとつであったことと思います。

人を乗せる曳舟が、いつ頃から運行を開始したのかは記録が無く、定かではありません。

宝暦8年(1758)に土浦藩主土屋篤直が、参勤交代の時に記した「土浦道中絵図」(茨城県立歴史館蔵)があります。この絵図の中には『本所水道、引舟二か所アリ』と曳舟の記述があるのです。このことから、古上水で旅人を乗せるための曳舟の運行は1758年以前からあったことが判ります。また、二か所とは、一か所は「四ツ木曳舟(四ツ木〜亀有間)」、もう一か所は墨田区側だと思いますが定かではありません。

 (2)曳舟遊覧の記録

曳舟乗船の記録が幾編かあります。

村尾正靖(*3)が著した「嘉陵紀行」は、文化9年(1812)から天保5年(1834)の間、江戸近郊を日帰り旅行した時の旅日記です。この中から「半田稲荷詣」(葛飾区東金町4丁目)の際の略図(図2)付き日記を、現代文で紹介しましょう。

『文化14年(1817) 丑の陰暦6月15日、半田稲荷に詣でようと、朝食後、浜町の家(*4)を出て、大川橋(吾妻橋)を渡り、小梅の水戸殿(*5)の屋敷の脇から一本道を用水(古上水)に添って東に行くと、道の傍らに表示がある。「右江戸大川橋へ30丁(距離換算表は本項の巻末を参照)、左新宿・松戸へ2里」と記してある。ここに小径があり「南に行くと木下川薬師(現葛飾区東四ツ木)、北に行くと梅若山王(木母寺)へ行く」とある。ここを過ぎてなお行くと、四つ辻がある。東に行くと新宿、南斜めに用水の橋を渡って、水の南側の縁を行くと、市川に出る。後方の左の方角、西北の方が橋場へ行く道だという。ここに酒や菓子・飯等を商っている家が6・7戸ある。市川道の右、路に入って行くと西光寺という天台宗の寺がある。ここに葛西三郎清重(*6)の墓があるという。帰りに訪ねようと、右に見やりながら行き過ぎる。なお行くと世継(四ツ木)である。ここに茶店が2戸ある。この店では酒も売っている。二軒並んでいることから、二軒茶屋と呼ばれている。ここから用水に小舟を浮かべ、28丁の間を、綱で引かれて行くことができる。これを世継ぎの引舟という。有名な所ではあるが、ここに来たのは初めてなので、珍しい光景である。』(以下略)。  (「江戸近郊ウォーク」より)

村尾はこの後、半田稲荷・香取神社(*7)・柴又帝釈天・西光寺を参拝後、往路と同じ道を歩いて帰宅しました。 図2は、嘉陵紀行「半田稲荷詣」に付された村尾自身が描いた略地図です。図は、文中の『道の傍らに表示がある・・・』の表示(図中の①)の場所から「亀有」(図中の⑩)までの間を、途中で「ここから曳舟に乗る」(図中の⑦)等のメモを添えて描いています。

<図2略図の中の記述>

『 ①左江戸大川橋(吾妻橋)30丁(約3.3㎞)右松戸2里(8㎞)。②木下川浄光寺薬師道6丁(650m)。③木母寺道。④橋場渡しに出る。⑤市川道 奥戸。⑥此辺り世継(四ツ木)村、人家6・7戸各酒菓を売る。⑦世継二軒茶屋、ここより引舟に乗る。東の二軒茶屋の後ろの林遥かに見え佳景なり。⑧この所28丁(約3㎞)引舟なり。⑨水戸道中(街道)。⑩亀有村。⑪ここでも二軒茶屋と言う。⑫清重稲荷旧跡 今は神体を西光寺本堂(葛飾区四ツ木1丁目)に移す、跡ばかりあり。』

現在もそのままの地名が残っており、距離もほぼ一致しています。何れの場所も現在の地図で辿ることが出来るのです。

この略図と文章から、200年も前に「曳舟川沿いを歩き、四ツ木で曳舟に乗り3㎞離れた亀有で降り、水戸街道を経由して金町の半田稲荷まで行った」様子が目に浮かびます。

ここでは小梅~四ツ木間の曳舟の有無には触れていません。おそらく無かったのかもしれません。あれば「乗らずに歩いた」等と記したと思います。

曳舟遊覧について、寛政10年(1798)の「成田の道の記」(作者不明)にも、成田山新勝寺参拝後の帰路について、次の様な記録があります。

『・・・新宿に至る、渡しを越え、それより8・9町も行きし頃、はや世継に至る、土橋の両たもとに茶屋あり、酒豆腐などあきなふ、橋を渡りて藤棚ある酒屋に立ち寄りけるに、夕立降りかけたれば、暫し此処にて休らいけり、それより乗合の引舟に乗る、此の舟路の間25町という、歩めば此の淵の堤を行く、引舟の何とかや事珍しく

年月をわたる綱手に引くもまた 身過ぎよつぎの里の舟守

程なく着きて上がる、爰(ここ)にも茶屋あり、直ぐに堤の通りを半道も行きて、小梅村の入口に至る、此の道、半道とはいへど、20丁余もあらんと思えば、 半道に過ぎてすくなき筈もなし 小うめの口に入りて思えば』   (「葛西用水 曳舟川をさぐる」より)

この文章から「四ツ木から小梅間」を曳舟に乗ったとも読めますが、次の様な解釈も出来そうです。

・「新宿の渡しを越え、8・9町(約1㎞弱)行くと世継ぎに至る」とあるが、実際の距離は、新宿の渡しから四ツ木までが約3.5㎞、亀有の曳舟川までが800m弱。よって「世継ぎに至る」ではなく「亀有に至る」ではないか。

・「程なく着きて上がる。ここから半道(2㎞)で小梅村の入口に至る、実際は20丁(2.2㎞)余もある」とあるので、ここから更に小梅村入口まで歩く距離を考えると、舟を降りたのは小梅ではなく、四ツ木と解釈するのが妥当ではないかと思う。

実際、舟に乗ったのは「亀有から四ツ木」で、著者が勘違いしているともとれます。

俳人の小林一茶も「文化3年(1806)に引舟に乗った」と「金町祭礼の記」に記録があるそうです。多くの旅人が曳舟の遊覧を楽しんだことでしょう。

〈注〉

*1 旧水戸街道の詳細については、追って「水戸街道」の項で紹介。

*2 荒川は、明治43年(1910)に発生した大洪水の水害対策として開削した荒川放水路。詳細については、追って「荒川と荒川放水路」の項で紹介。

*3 村尾正靖(1760~1841)は、徳川御三卿の一つ、清水家に仕えた武士で嘉陵は号。清水家下屋敷に住んでいた。

*4 浜町の家は、清水家下屋敷のことで、現在の中央区日本橋蠣殻町2丁目。

*5 水戸殿は、旧水戸徳川家下屋敷(向島1丁目)。現在の隅田公園の内、言問通り以南、東武鉄道高架までの間。

*6 葛西三郎清重は、鎌倉時代初期の武将。下総国葛西領の領主。奥州平泉討伐に功績があり、鎌倉幕府初代の奥州総奉行になった。晩年、親鸞聖人に帰依し居館を西光寺にしたと伝えられる。

*7 香取神社は、明治14年(1881)に葛西神社に改められた。所在地は葛飾区東金町6丁目。

柴又帝釈天は、経栄山題経寺、葛飾区柴又7丁目。西光寺は、葛飾区四ツ木1丁目。