第1章 曳舟川のはなし

5、明治以降の曳舟川(一)

 (1) 曳舟の廃止

曳舟は、広重の「江戸名所百景」の絵にも描かれ人気がありました。しかし、明治に入り人力車や荷車等の輸送手段の進展があり、曳舟の利用者が減り、明治15年(1882)頃には廃止されました。

小梅から四ツ木間の曳舟も、この頃に廃止されたとの説がありますが、実際はどうであったのでしょうか?

次の2枚の絵をご覧下さい。

図1は、歌川広重(2代目?)が、幕末か明治初期に描いた「小梅の堤」の絵です。初代広重も「小梅堤」と題して同様の絵を描いています(表紙絵)。

図2は、小林清親(*1)が明治初期に描いた「小梅曳舟通り雪景」です。何れの絵も手前の橋は、小梅(とうきょうスカイツリー駅北交差点の位置)に架かっていた八反目橋(はっためばし)です。視点の高さはやや異なりますが、両方の絵は、ほぼ同じ位置から描いています。その先の橋は、庚申塚橋・七本松橋です。更にその先には、四ツ木までの間に複数の橋がありました。

いくつもの橋が架かっていた小梅~四ツ木間を、舟からの綱を引いて、橋をかわしながら土手道を歩くことが、はたして容易に出来るでしょうか。極めて困難なことと思います。

このことから、小梅~四ツ木間の曳舟は既に廃止され、明治時代初期まで運行していたのは、橋が無かった四ツ木〜亀有間の約3㎞だけではなかったかと考えます。

小梅~四ツ木間の曳舟運行していた時期については次の様に考えます。

運行が始まった時期は、土浦藩主が宝暦8年(1758)に記した「土浦道中絵図」の『本所水道、引舟二か所アリ』(「3.江戸時代の曳舟川(2)曳舟遊覧の記録」参照)の内の一か所が「小梅の曳舟」であれば、本所上水が廃止となった享保7年(1722)以降、土浦道中絵図を記した年の間と考えられます。

また、曳舟廃止の時期は、「嘉陵紀行」の『半田稲荷詣』(「3.江戸時代の曳舟川(2)曳舟遊覧の記録」参照)で、文化14年(1817)に、著者が小梅から四ツ木の舟乗場まで『用水土手の一本道を歩いて』いることと、寛政10年(1798)に記された「成田の道の記」(「3.江戸時代の曳舟川(2)曳舟遊覧の記録」参照)を併せて考えると、この年以前となります。

以上のことから、小梅~四ツ木間の曳舟を運行していた時期は、1722~98年の間(江戸時代中期)と思います。

(2)明治時代末期の曳舟川界隈

図3は、明治38年(1905)発行の東京府南葛飾郡全図から四ツ木〜地蔵橋(東京市と南葛飾郡の境、旧本所区と向島区の区境と同じ)間の曳舟川周辺図です。図から当時の様子を調べましょう。

地図の中央を対角線状に流れる曳舟川は「古上水」、その左手(西側)の土手道には「四ツ木街道」と記されています。

四ツ木〜亀有間の曳舟川には並行して右手東隣に「中井堀」、左手西隣に「千間堀」と三筋の流れになっています。

亀有村では、中井堀の東側に「東井堀」、西側に「西井堀」が分岐しており、中井堀の「中」の由来がはっきりしました。

鐘ヶ淵駅踏切で交差している古道の官道東海道は立石道の名称で、名刹西光寺(葛飾区四ツ木一丁目)際で曳舟川と交差、江戸時代にはここに将軍の鷹番所があり、鷹番橋が架かっていました。

そのすぐ北側で中井堀は曳舟川と別れ、東武亀戸線天神停車場(昭和初期に廃止、後に堀を挟んで亀戸側に小村井駅開設)脇を流れ、更に香取神社脇を経て北十間川に真っ直ぐ流入しています。

地蔵橋(詳細後報)を渡る道(鳩の街通りを南下する道)は「吾嬬森道」と記されて、十間橋手前で北十間川の土手道に接続し吾嬬神社に至ります。

請地村は東西に長い村で、東の端は中井堀(境橋際)までありましたが、合併して「吾嬬村」になっています。

鶴土手橋(詳細後報)を渡る鶴土手道(地蔵坂通り)は香取神社角で平井街道に繋がり平井橋に至ります。

地図が発行された年の後、曳舟川沿いには二つの警察署が設置されました。

明治41年(1908)に、押上2―2の位置に向島警察署(後の言問警察署)が開設、大正7年(1918)には、東向島6―12の位置に千住警察署寺島分署(後の寺島警察署)が開設されました。当時から曳舟川沿いの道が如何に重要であったかを窺(うかが)い知ることができます。何れの警察署も終戦直前の昭和20年(1945)5月に本署へ統合されました。

〈注〉

*1 小林清親(1847〜1915/弘化四〜大正4年)は、本所生まれの画家。「明治の広重」と言われた。「東京名所図」。浮世絵・版画。