(3)幕末期の向島絵図から
図3は、安政3年(1856)に発行された版元尾張屋清七の「隅田川向嶋絵図」です。元の絵図は、江戸城方向である南の方角を上にして描いています。見易くするために、元の絵図を逆にして、北の方角を上にしました。
観光地である墨堤界隈は、ほぼ忠実に描かれていますが、全体としては、大雑把な絵図になっています。絵図では、綾瀬川は、中居堀と合流して北十間川に流入していますが、実際には、曳舟川・中居堀と交差して中川に流入しています。絵図の中に綾瀬川の流れを点線で是正すると、実際に即した図になります。
中央の南北の流れが曳舟川です。四ツ木で曳舟川から中居堀が分岐します。前述の「嘉陵紀行」著者の村尾正靖はこの付近にある舟着場で曳舟に乗りました。絵図は村尾が「大川橋を渡り水戸徳川邸の脇(小梅)から一本道を用水(曳舟川)に添って」歩いた記録と符合します。
絵図から、曳舟川には小梅から四ツ木の間に多くの橋が架かっていたことが判ります。四ツ木から先は省略されています。古川跡は旧本所・向島区の境界でした。現在は埋め立てられて細い路地になっています。
(四)浮世絵・写真で見る曳舟川
図4は、歌川広重が描いた「名所江戸百景・用水引きふね」で嘉永2年(1849)発行の版画です。前述の村尾正靖が楽しんだ「四ツ木の曳舟」は江戸名所のひとつとして市中でも人気がありました。
正確なことは判りませんが、おそらくこの頃から「古上水」は通称「ひきふね川」になったのではないでしょうか。
この絵は遠方に筑波山を配し、四ツ木から亀有間の長閑(のどか)な曳舟川(古上水)界隈の情景を描いています。しかし、写実的ではなく実際と異なっています。
曳舟川の流れは四ツ木から亀有までは直線状で、絵の様なS字形には屈曲していません。また、舟を引いて歩いた土手道は、前項の村尾正靖が描いた略図にもある一本道(四ツ木街道と呼ばれていた)は、絵の左手西側の土手道です。更に、絵の土手道の位置には、用水に並行して中居堀の流れがありました。おそらく絵は、江戸の名所案内用として作者が意図的に構図をデフォルメしていると考えられます。
写真1は、明治時代初期の曳舟川の様子です。橋が無く、川の流れにカーブが無く、ほぼ直線状であることから、鶴土手橋から薬師橋の間、または薬師橋から上流方向の景観を撮影したと思われます。
図5は、洋画家浅井忠(*8)が明治18年(1885)頃に描いた写実的なペン画です。デフォルメされた図4の版画と異なり、当時の民家や川の様子がよく判ります。奥の橋付近には、長い竿を持った船頭が乗っている舟が描かれています。写真1同様、のんびりと時間を忘れるような曳舟川界隈の田園風景です。
〈注〉
*8 浅井忠(1856〜1907/安政3〜明治40年)は、明治期の洋画家・教育者。東京美術学校(現東京芸術大学)教授。