第2章 曳舟川周辺の歴史
1.荒川と荒川放水路

(1)近世の三大災害 

すみだの町は、明治時代末期以降、僅か35年の間に、首都圏を襲った極めて大きい災害に三度も遭遇しました。

すみだの三大災害とは、

・明治43年(1910)の大洪水
・大正12年(1923)の関東大震災
・昭和20年(1945)の東京大空襲

いずれの災害も壊滅的な被害状況であったにもかかわらず、不死鳥のように復興し、それ以前にも増して良い環境を整え、積み重ねて今日に至っているのです。それぞれどのような災害であったのか、その後、どの様に復興したのでしょうか。

(2)明治の大洪水

東京都内の大河「荒川」が人工の川「荒川放水路」であることをご存知でしょうか?
東京の東部には古くから隅田川(上流は荒川)・綾瀬川・中川など自然に出来た河川がありました。しかし、これらの川だけでは、毎年の様に来襲する台風や集中豪雨時の水量を東京湾に放流しきれませんでした。また、自然に出来た河川のため屈曲が多く、川の水位が上がり流れが急になると、至る所で堤防が決壊し、広い地域が水害に見舞われました。

図1は、国土交通省荒川下流河川事務所発行のカタログから「放水路開削前の地図」を転載しました。

中央の曲りくねった大きな川は隅田川で上流は荒川です。右辺の細く曲りくねった川は中川で、上流は利根川です。
江戸時代以前から、住民や田畑を保護するための堤防(墨堤(ぼくてい)古くは隅田堤)が造られていました。徳川家康が江戸に入府した頃には「隅田堤」を修復しています。江戸時代になってから「日本堤」(台東区日本堤)を築きました。しかし、これらの堤防は上流域の洪水対策にはならず、下流域の防災にも不十分でした。毎年のように発生する洪水に備えて、家の軒先には避難用の舟を一年中吊るしていた民家が数多くありました。

明治43年(1910)8月の水害は明治時代最大の被害をもたらしました。
長期の豪雨と台風が重なり、各地で大洪水が発生しました。被害は東京・埼玉をはじめ、関東地方一府六県で浸水家屋が35万戸超、流失家屋3千戸超に達しました(荒川下流河川事務所発表)。東京市区部の東部では水位が軒下まで達し、広範囲にわたって泥沼と化しました。

写真1は向島新小梅町(向島1丁目)界隈の洪水の様子です。墨東地区も甚大な被害が発生しました。

 (3)荒川放水路の開削

明治政府は、翌年の明治44年(1911)から、以前より洪水対策として計画していた荒川放水路の建設に踏み切りました。翌年、用地の買収に着手、大正2年(1913)、岩淵水門から川幅500m、全長22㎞の開削工事が始まりました。
建設工事の主任技師には、日本人として唯一パナマ運河の建設に加わった青山士(あきら)(*1)が任命されました。

図2は、大正10年(1921)国土地理院発行の「向島」図です。荒川放水路の開削工事中の様子が判ります。

荒川放水路を上流から見てみると、

・東武鉄道が鐘ヶ淵駅から堀切駅先まで放水路にそっくり入っている。
・鐘ヶ淵駅踏切から東に向かう古道の官道東海道(立石道)がまだ繋がっている。
・曳舟川・京成押上線・中居堀は放水路の中でまだ繋がっている。
・分断される前の旧中川の流れが判る。

この後、工事は次の様に進みます。
・荒川放水路の中央にあった東武鉄道は、鐘ヶ淵駅より北部のレールを、次の堀切駅を含めて、その先までの約1㎞余を土手の西側に移設。
・放水路の中ほどにある「木下川薬師」(〇印)で有名な浄光寺は、400m東(点線矢印の先)の現在地(葛飾区東四ツ木1丁目)に移転。
・綾瀬川・官道東海道・曳舟川・中井掘・中川は分断されたまま今日に至る。

大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災の時には、荒川放水路と隅田川の分岐点に「岩淵水門」(*2)が工事中でした。しかし、巨大地震にもしっかりと耐え、その建設技術は高い評価を受けました。水門(旧水門)は、翌年の大正13年(1924)、無事完成しました。

図3は、荒川下流河川事務所発行の「放水路完成後の地図」を転載しました。

荒川放水路は、建設スタートから19年の工期を経て、昭和5年(1930)に完成しました。荒川放水路の東側には平行して新たに中川放水路を東京湾まで建設されました。こうしてできた荒川放水路の川幅は500mで、隅田川(約150m)の三倍以上の川幅があります。しかも屈曲が少ない緩やかな流れの放水路は、流域の河川の流れを集めて東京湾へ大量の水を放流させることが出来ました。
この結果、この流域の洪水被害は大幅に減少しました。

写真2は、初代岩淵水門(通称赤水門)で、完成後50年以上にわたり、隅田川への水量を調整し洪水を防ぎました。

写真3は、現在の岩淵水門(通称青水門)です。赤水門の老朽化に伴い、昭和57年(1982)、300m下流に完成しました。(写真2・写真3は筆者撮影)

(4)進化する堤防

戦後になって昭和22年(1947)のキャサリン台風及び昭和24年(1949)のキティ台風の来襲は、放水路計画時の予想を上回る豪雨で、明治43年以来の大洪水をもたらしました。
その後、伊勢湾台風等もあり、台風被害を教訓に高潮対策も施した「高潮堤防」の改修を進めました。昭和45年(1970)、河口から堀切橋までの間、約11㎞にわたり高潮堤防が完成しました。
昭和60年(1985)以降は、更に堅牢な「スーパー堤防(高規格堤防)(*3)」計画を策定し、順次完成させています。また、大きな遊水地や巨大な地下神殿(*4)の様な水量調整施設が完成し、東都を水害から守っています。
荒川放水路の名称は、昭和40年(1965)に荒川に改称、並行する中川放水路は中川、墨田区と江戸川区の区境になっている中川は旧中川に改称されました。
また、隅田川の名称は東京湾の河口から岩淵水門までとなりました。

荒川上流で隅田川が分流する赤羽「岩淵水門」(北区志茂)近くにある国土交通省「荒川知水資料館」には、荒川放水路に関する様々な資料があります。本項はここの展示資料の説明も交えて紹介しました。皆さん、散策を兼ねて同館にぜひ一度訪れてみてはいかがでしょう。

〈注〉
*1 青山士 (1878~1963)は、現在の東京大学工学部土木工学科を卒業すると、単身で渡米し、日本人として唯一パナマ運河(1914年竣工)の建設工事に7年間加わった。ここで世界最先端の土木技術を学び、大正元年(1912)に帰国すると内務省技師になり、荒川放水路建設の技術指揮を任じられ、完成させた。

*2 初代岩淵水門は、老朽化と地盤沈下のため、昭和57年(1972)現岩淵水門に引継いだ。平成20年(2008)、初代岩淵水門・荒川放水路は「近代化産業遺産」に認定された。

*3 スーパー堤防(高規格堤防)とは、堤の高さの30倍の幅で土地を嵩上げし、越水・浸透・耐震で地域を洪水から守る堤防のこと。東京では、荒川・江戸川・多摩川で整備を進めている。(江戸川区ホームページより)

*4 地下神殿は、正式名称が「首都圏外郭放水路」で、春日部市の国道16号直下約50mに設けられた地下放水路のこと。内径10m、総延長約6.3㎞のトンネルで、周辺の河川が洪水になった時、これらの一部を集めて江戸川を経て東京湾に放流する施設。