(1)飛木稲荷神社のご神木 (住所 押上2―39―6)
飛木稲荷神社(写真1)の境内にあるご神木の大イチョウに関するエピソードを二つご紹介します。
飛木稲荷神社の由緒によると、ご祭神は宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)で、私たちの命に大切な食物を司る神様です。
神社が創建された年代は定かではありませんが、東京都の神社名鑑には、次の様に記されています。
『明治2年(1869)の神社明細帳に、創建は応仁2年(1468)と記されている。境内の大イチョウ(ご神木)は、その由来が古いことを物語っている。

鎌倉幕府が滅亡した後、北条氏の一門が逃れてこの地に住み稲荷大明神を分霊し、お祀りしたものと言われ、旧請地村(*1)の鎮守である』
神社の創建は応仁2年(1468)とあります。これは、別当寺であった円通寺の創建が応仁元年(1467)とあることに由来しているものと思われます。しかし、鎌倉幕府が滅亡し、足利幕府が開かれたのは延元3年(1338)であり、神社の創建とされる年までには百年以上の空白があります。
円通寺の山号が「飛木山」であることから、神社の創建は、この約百年の間に、北条氏の一門また近隣の人々により稲荷社が祀られたのではないかと推測ができそうです。
さて、ご神木のエピソード、一つ目は神社名の由来です。古老の言い伝えによると次の様にいわれています。
「大昔のある時、防風雨の際、どこからかイチョウの枝が飛んできてこの地に刺さり、いつの間にか、すくすく生長し高く聳え立った。当時の人が、これは瑞兆(大変お目出度いこと)と稲荷神社をお祀りしたのがはじまりで、神社の名前も飛木稲荷と命名された」
ご神木のエピソード、二つ目は「身代り飛木の大イチョウ」と言われている経緯です。境内の説明板には次の様に記されています。
『昭和20年(1945)の東京大空襲で、ご神木のイチョウは、わが身を焦がして、懸命に炎をくい止め、延焼を防ぎ多くの人たちの命を守りました。イチョウは数年後にたくましく緑の芽を吹き出し、私たちに生きる勇気と希望を与えてくれました。』

写真2は、境内参道の左に聳(そび)えるご神木の大イチョウです。区の指定天然記念物になっています。幹の太さは目通り約4.8m、高さ15mあり、樹齢は5~600年以上といわれる区内随一の大木・古木です。
(2)教科書に載ったご神木
ご神木のエピソードは、児童文学書「七本の焼けイチョウ」(日野多香子著・くもん出版発行)や「よみがえった黒こげのイチョウ」(唐沢孝一著・大日本図書発行)等の本になり出版されています。
東京書籍株式会社が平成23年(2011)発行した小学校四年生道徳副読本「どうとく4ゆたかな心で」には「ふるさとを守った大いちょう」として、子供たちにわかりやすく紹介されています。
以下に原文をそのまま紹介します。
『東京都墨田区にある飛木稲荷神社には、500年も生きている大きなイチョウの木があります。
墨田区でもっとも古いこの大イチョウには、次のような言いつたえがあります。
大昔、あらしでとばされてきたイチョウのえだが、この土地にささって、根づいた。それを見た人々は、「これは、よいことがおこるしるしにちがいない」と、神社を祭ることにした。その「とび木」がこの神社の名前にもなり、やがて生長して大イチョウとなった。
この大イチョウは、よく見ると、みきが真っ黒にやけこげているのがわかります。高さ15メートルより先の部分はやけ落ちていますが、黒いみきのあちこちからは、たくさんのえだが生えています。どうしてこのようなすがたにになったのでしょう。
昭和20(1945)年、日本はせんそう中でした。そして3月10日の東京大空しゅうによって、多くの家やたてものがやける火さいがおこりました。
東京大空しゅうでは、B29というひこうきから、たくさんのばくだんが落とされました。そのばくだんの多くは、火さいをおこすためのばくだんでした。当時、日本の多くのたてものは木でつくられていたので、あっという間に火が広がっていったのです。
そのとき、この大イチョウといっしょに道路にそって植えられていた、何本ものイチョウの木が、せまってくる火を食いとめ、火がもえ広がるのをふせぎました。神社のたてものや近所の家なども、やけずにすみましたが、大イチョウは、みきの全てが黒くやけこげてしまい、ほかのイチョウもやけこげてしまったのでした。この様子を見た人々は、
「あのとき、神社の前の道路で、イチョウが火をくいとめてくれたんだ」「火が広がらなかったのは、このイチョウのおかげだ」と感しゃしました。
「でも、イチョウがやけこげてしまったのは、ざんねんなことだ」
人々は、とても悲しみました。
そして、せんそうのあと、何年かたちました。なんと、あの黒こげの大イチョウから、緑の芽が出てきました。地上のみきはやけこげていても、地下の根が生きのこっていたのです。
「大イチョウが生き返ったぞ」
きぼうをうしないかけていた人々は、よろこびました。それから、大イチョウは、まるできず口を手当てするかのように、黒くこげた部分を新しい皮でつつんでいったのでした。
「この大イチョウを見習って、もう一度ふるさとを立て直そう」
大イチョウのふっかつは、やけ野原になっていた自分たちの町を、もう一度立て直す気持ちをよびおこしてくれました。
この大イチョウは、げんざい、墨田区の指定天ねん記ねん物になっています。この地いきの人々にとって、ふるさとを守るシンボルとして、大切にされています。』 以上
(掲載にあたっては出版社の了解を頂きました。)
神社の境内では、有名になったこの大イチョウを一目見ようと、遠隔地から見学に来る人たちをよく見掛けます。
私たちの町が、村であった頃の古い時代から500年以上もの間、人々を見守り続けきたこの「ご神木の大イチョウの言い伝え」を後世に伝えたいものです。
イチョウの木は、昭和51年(1976)に墨田区保護樹木に指定されました。
飛木稲荷神社の祭礼は、以前は毎年9月17・18日に行われていましたが、現在は9月の第2土・日曜日に行われています。
〈注〉
*1 旧請地村は、明治11年(1878)の群区町村制により「南葛飾郡請地村」になる。明治21年(1888)の市制町村制施行により、請地村は分断され、旧本所・向島区境以南が「本所区向島請地町」になり、残りの地域は翌年、小村井・葛西川村と合併し「南葛飾郡吾嬬町」になった。昭和5年(1930)の「 丁目制」施行時に吾嬬町は、吾嬬町東・西の二町に分断された。昭和7年(1932)吾嬬・寺島・隅田町の三町で向島区が成立。昭和22年(1947)本所・向島区が合併し墨田区が成立。昭和39年(1964)住居表示変更により現在に至る。