墨田区内には都立公園(*1)が3つあります。その内の一つ「都立横網町公園」(写真1)を紹介します。
「横網町公園」内にある説明板には次の様に記されています。
<横網町公園>
「関東大震災(大正12年/1923年)や、東京空襲(昭和19~20年/1944~45年)による悲劇を、記憶・伝承し、その犠牲になった多くの人々を慰霊する公園です。」

(一)横網町公園が出来る迄の経緯
関東大震災直後に出来た「横網町公園」の過去から現在迄を調べてみました。
「都立横網町公園」がある敷地は、江戸時代には、「御竹蔵」と呼び幕府の広大な資材置き場でした。「明暦の大火(明暦3年/1657)」後に幕府の建築用資材置き場として設けられたと伝えられています。御竹蔵の範囲は横網町公園だけではなく、国技館・江戸東京博物館周辺までを含む広さでした。隅田川を挟んで対岸の「蔵前」には、幕府の広大な土地に「米蔵」が並んでいました。蔵前の地名はこの米蔵に由来します。
御竹蔵の跡地の多くは、明治時代以降、大正11年(1922)まで、陸軍の被服廠(ひふくしょう)の敷地となり、その工場や倉庫等が有りました。
図1は大正元年(1912)の地図から両国界隈を抜粋しました。赤枠で囲った位置に「被服本廠」と記されています。「廠」は工場の意味で、被服廠は陸軍の軍服や軍靴を造る施設でした。

当時の様子を見ると、現在のJR東日本総武線の両国駅は千葉方面からの終着駅で、東京の東の玄関口でした。また、清澄通りは拡幅されていますが、現在の蔵前通りはまだ拡幅されず昔のまゝの細い道でした。それ故、隅田川にはまだ総武線の鉄橋も蔵前橋も架かっていません。
大正8年(1919)、被服廠が赤羽台に移転し、広さ約2万坪(約7万㎡)の広大な「被服廠跡地」が残りました。大正11年(1922)、東京市は跡地を買収し公園にする計画を進めていました。
翌年の大正12年(1923)9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9の関東大震災が発生しました。昼食の準備時間と重なり市内の100カ所以上で火災が発生しました。火災から非難するため荷物を携えた人々は、広大な被服廠の跡地に殺到しました。その数は約4万人に達したと言われています。火は荷物に燃え移り火災旋風が起こります。この惨状の詳細については、マスコミなどでも報道されている通りで、被服廠跡地では3万8千人を超える人たちが焼死しました。
東京市は、被服廠跡地の北側に約6千坪(19580㎡)の「横網町公園」を造り、その園内に「震災記念堂」を建設し、東京市内の震災による死者5万8千人の遺骨を埋葬し御霊の供養をしました。
昭和5年(1930)9月1日、「横網町公園」は「震災記念堂」と共に開園しました。翌年の昭和6年(1931)、園内に「震災復興記念館」を完成させ、震災の惨状と、その後の復興事業を、後世に永く伝えています。
図2は昭和24年(1949)頃発行の地図から両国界隈を抜粋しました。この頃、横網町公園内の慰霊堂は、まだ建設当初の名称「震災記念堂」になっています。
昭和22年(1947)3月に、本所区と向島区が合併し誕生した墨田区の「区役所」は、被服廠跡地の清澄通りに面した横網町公園の南の一画にありました(元の本所区役所)。隣接して両国中学校・日大一高等が建てられています。

現在、江戸東京博物館がある場所には、江東市場(中央卸売市場 江東分場)がありました。現在、国技館がある場所は、国鉄(現在のJR)の土地で引込線がありました。
震災復興事業により、後に「蔵前橋通り」となる通りは拡幅され、昭和2年に蔵前橋が架けられました。清澄通りには都電(柳島~月島間)が、既に敷設されていました。昭和18年(1943)、東京市は「東京都」になりました。
図3は現在の地図(すみだガイドマップ/赤枠内は両国地区避難場所)から両国界隈を抜粋しました。

両国駅操車場の引込線があった場所には「両国国技館」が、江東市場があった場所は「江戸東京博物館」が建てられました。また、墨田区役所は平成2年(1990)にアサヒビール吾妻橋工場跡地の現在の場所に移転しました。
横網町公園内にある「東京都慰霊堂」(写真2)及び「東京都復興記念館」(写真3)は、令和5年(2023)が「関東大震災から100年」にあたる年で、マスコミに度々取り上げられました。その説明板には次の様に記されています。
<東京都慰霊堂>
「関東大震災、及び東京空襲の遭難者16万人余の御霊を慰霊する施設です。昭和5年(1930年)に建てられました。堂内には絵画・写真等の展示もあります。どなたでも入堂できます。」
<東京都復興記念館>
「関東大震災からの復興事業を記念するために昭和6年(1931年)に建てられました。関東大震災や東京空襲の被害や復興に関する資料を展示しています。」
(二)東京都慰霊堂(旧震災記念堂)について
東京都慰霊堂(写真2)は、昭和5年(1930)「震災記念堂」の名称で関東大震災による多くの犠牲者を慰霊する施設として建造されました。最大の特徴は、特定の宗教に偏らない慰霊施設として設計されました。設計者は日本を代表する伊東忠太(*2)です。建物は神社建築・仏教寺院建築・キリスト教会建築などが融合されています。堂の外観(写真1)は神社風及び寺院風で、内部は教会風の珍しい建築です。全ての犠牲者を分け隔てなく慰霊する設計です。
昭和26年(1951)、東京都は、「震災記念堂」を「東京都慰霊堂」と改称し、東京大空襲による犠牲者の遺骨も併せて埋葬しました。慰霊堂には、現在約16万3千体の遺骨が安置されています。堂内には、関東大震災による惨状を描いた絵画と、東京大空襲による惨状の写真が掲げられています。堂内は自由に参拝・拝観できます。

慰霊堂では、東京大空襲があった3月10日に「春季慰霊大法要」が、また関東大震災が発生した9月1日には「秋季慰霊大法要」が毎年営まれています。
(三)東京都復興記念館(旧震災復興記念館)について
昭和6年(1931 )に「震災復興記念館」(写真3)として建てました。設計者は慰霊堂と同じ伊東忠太です。館内には、当時の被災状況やその後の復興の状況を伝える写真・図表・記念の品等を展示しました。
昭和26年(1951)、「東京都復興記念館」に改称し、関東大震災に併せて、東京大空襲で焦土と化した東京が、どの様に復興したかを伝える写真・図表等を展示しています。「東京都復興記念館」は平成11年(1999)に「東京都慰霊堂」と共に東京都選定歴史建造物(*3)となりました。
入館は無料です。休館日は毎週月曜日及び年末年始です。是非、見学することをお勧めします。

公園内には、震災記念屋外展示場はじめ日本庭園・平和祈念碑・殉難者犠牲者の碑・遭難児童弔魂像等々があります。「都立横網町公園」は「関東大震災・東京大空襲の歴史博物館」と言えるところです。そして、東京都の聖地として、都民・区民の憩いの場にもなっています。
参考資料 すみだ郷土文化資料館・東京都慰霊協会・横網町公園及び記念館資料・各種事典他
*1 区内にある3つの都立公園とは「横網町公園」「向島百花園(四季の植物と江戸文化を楽しめる庭園)」「東白鬚公園(広大な防災公園)」です。区内でよく知られている「隅田公園」「旧安田庭園」「大横川親水公園」「錦糸公園」等は何れも区立の公園・庭園です。
*2 伊東忠太(1867-1954)は日本を代表する建築家・建築史家です。橿原神宮・明治神宮・平安神宮・湯島聖堂・築地本願寺等多数の設計を担当しました。
*3 「東京都選定歴史建造物」とは、都が「景観条例」に基づいて選定する、歴史的価値があり、東京の景観にとって重要な建造物のことで、保全の観点から選ばれます。隅田川上流にある「旧岩淵水門」も選定された建造物です。
