第3章 曳舟川周辺の歴史<続>
23、回向院と大相撲

 江戸時代は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれていたほど江戸市中には火事が多発していました。特に、約360年前の明暦3年(1657)1月に発生した大火は江戸時代で最も大きな被害を出しました。俗に「明暦振袖火事」といわれ、江戸市中の3分の2を焼き尽くし、死者は10万人を超えたと言われています。

(一)両国 回向院
 江戸幕府第四代将軍徳川家綱は、隅田川東岸のこの牛島の地に、この火災による多くの身元不明の焼死者を埋葬し弔う「無縁塚」を築きました。これが回向院(写真1)建立の起源です。
 回向院は、宗旨の分らない遺体を埋葬していることから、宗派にとらわれない寺院ということで、正式な名称は「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられました。(所在地/両国2-8-10)
 回向院では、その後も大火・大震災・水害など天災・人災による無縁の亡骸(なきがら)を埋葬・供養されています。近年では関東大震災や東京大空襲などによる犠牲者が供養されています。

 
 回向院は昭和20年(1945)3月の東京大空襲で焼失しました。現在の回向院正門(写真1)の位置は京葉道路に面して境内の北側に設けられていますが、焼失以前は、隅田川の方に向かって「一の橋通り」に面した西側に有りました。旧正門跡に設けられている「回向院」の説明板には次の様な説明と「斎藤月岑(さいとうげっしん)画 江戸名所図会」が掲示されています。

回向院正門跡
『回向院の正門は、かってこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。
 かっての回向院正門は、江戸城から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者10万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものともいえます。
 両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本隅田川両岸一覧(両国納涼)」等に描かれています。           墨田区 』

「図1」が江戸時代の画家・斎藤月岑(げっしん)の版画「江戸名所図会 回向院」です。回向院は西向き(図の手前下辺が隅田川)で正門(山門)が下辺右に描かれています。回向院と同時期に設けられた両国橋(当時の橋は現在より約100m下流の位置/図の下辺右角の方向)を江戸城側から渡ると橋の正面突き当りが回向院の正門でした。正門をくぐると、本堂も正面の西向きに描かれています。

 回向院境内には様々な石碑・お墓があります。現存する主な碑は、「明暦大火供養塔(写真2)」「関東大震災横死者之墓(写真3)」「安政の大地震供養塔(*1)」「浅間山大噴火供養塔(*⒉)」「奥羽飢饉供養塔」「鳥居清長墓(*⒊)」「山東京伝(*⒋)・京山墓」「二代目中村勘三郎墓」「鼠小僧次郎吉墓(*⒌)」「力塚」等です。

(二)回向院と大相撲
 大相撲と回向院とは古くから縁が深く、今から260年ほど前の明和5年(1768)、勧進相撲が回向院境内で初めて行われました。勧進相撲とは社会事業に費やす資金を集めるための相撲興行です。興行は随時行われていましたが、天保4年(1833)の秋から年に二回の定期興行が、回向院境内で行われる様になりました。
 境内を入ると先ず左側に、昭和11年(1936)に建立した大きな「力塚」碑(写真4)が歴代相撲年寄の慰霊のために玉垣を巡らせ設置されています。

 明治42年(1909)、回向院の境内に旧国技館が建設されました。現在、老朽化により建物は撤去されていますが、当時の土俵位置は境内に隣接した広場に、タイルで表示されています。境内に設置されている「旧国技館跡」の説明板には、以下の様な説明と写真が掲示されています。

 国技館(大鉄傘)跡    所在地 墨田区両国2丁目8番 
『旧国技館(写真5)は、江戸時代以来の相撲興業の歴史を刻む回向院の境内に、明治42年(1909)に竣工・開館しました。1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館で、設計は日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾(たつのきんご)と葛西萬司(かさいまんじ)が手がけました。日本初のドーム型鉄骨の建物であったことから、大鉄傘(だいてさん)とも呼ばれました。開館当初は両国元町常設館が正式名称でしたが、翌年から国技館という名称が定着しました。開館後は菊人形祭りや講演会などを開催するイベントホールとしても利用されました。
 この建物は、大正6年(1917)の火災と同12年(1923)の関東大震災、そして昭和20年(1945)の東京大空襲などで被害を受けましたが、そのたびに修理され、昭和58年(1983)に老朽化に伴い解体されるまで使用されました。ただし、相撲常設館としての役割は、横綱双葉山の引退披露大相撲として開催された昭和21年(1946)秋場所を最後とし、その後はメモリアルホールと称してプロレスやボクシングなど格闘技の試合会場として使用されました。また、昭和33年(1958)以降は、日本大学講堂として使用されました。
 なお、旧国技館の解体後、地元の方々が台東区の蔵前国技館に移転していた本場所の誘致に尽力され、昭和60年(1985)1月に現在の両国国技館が開館しました。旧国技館の跡地は、現在複合商業施設となり、その中庭にはタイル張りでかっての土俵の位置が示されています。

 令和3年3月                                 墨田区教育委員会 』

 前述の説明通り、旧国技館(大鉄傘)では戦後の昭和21年(1946)の秋場所を最後に、大相撲本場所に使われることなく解体されました。その後は台東区の蔵前橋際に蔵前国技館が建設され、以後およそ30年間ここで本場所が開催されました。「栃若時代」「柏鵬時代」「輪湖時代」「千代の富士時代」等はこの蔵前国技館で繰り広げられました。現在の両国国技館は3代目の国技館になります。現在、蔵前国技館の跡地には東京都下水道局の施設が建っています。

〈注釈〉
*1 安政の大地震 安政2年(1855)江戸を中心に発生,マグニチュード推定6.9、死者1万人に及んだと言われている。
*2 浅間山大噴火 天明3年(1783)の大噴火で、千人以上の死者を出した。
*⒊ 鳥居清長 (1752~1815)江戸時代中期の役者絵・美人画の浮世絵師。
*⒋ 山東京伝 (1761~1816)江戸時代中期の戯作者・浮世絵師。山東京山は弟。
*⒌ 鼠小僧次郎吉 (1795~1832)江戸後期の怪盗。鼠の様に身軽で大名屋敷・武家屋敷を専門に夜盗を働いたため庶民からは義賊扱いされていた。約十年間に百回以上、凡そ1万2千両を盗み、捕えられ市中引回し後、処刑された。