今年3月からNHK朝の連続テレビ小説『風、薫る』が放映されています。この話は、明治時代に実在したトレインドナース(正規の専門教育と訓練を受けた看護師の明治時代の呼称)として近代日本の看護婦(現在は看護師)という職業の礎を築いた大関和(おおぜきちか)と鈴木雅(すずきまさ)という二人をモデルにしているそうです。(2026年7月記)
今回は、明治時代に女医から産婆(さんば/現在は助産師)になり、「助産師の礎」を築いたと伝えられている墨田区ゆかりの村松志保子(1856-1922)を紹介します。「村松志保子助産師顕彰会」では「助産師の母」と称えています。
村松志保子は東洋医学医師・教育者として、明治15年(1882)、「産婆(助産師)学校」を設立しましたが、その場所(横網2―7「ろうけん隅田 秋光園」の地)に「助産師教育発祥の地」と題した説明板(写真1)と胸像(写真2) が設置されており、次の様に記されています。

村松志保子の自律的・博愛的
近代助産師活動と助産師教育発祥の地
『明治時代に女医から産婆になり、明治・大正時代に博愛精神に基づき、助産活動をした先駆的助産師村松志保子は、安政3年(1856)生〜大正11年(1922)没、明治14年、この地に安生堂医院を開設、更に女性の地位向上のため、明治15年、淑女館と安生堂産婆学校を設立し、新しい教養豊かな産婆がこの地で育成された。
志保子の博愛精神は、貧富の分け隔てなく当時の多くの母子を助け、その活動は、大正12年9月1日の関東大震災まで、続けられた。
ここに、「志保子の崇高な精神」「高邁な志」に基づく活動を末永く称えると共に、助産師自らが設立した助産師教育と博愛的助産師活動発祥の地に、将来にわたり全世界の全ての母子とその家族の健康と幸福を願い、更に世界平和の実現への助産師の祈りの発信基地なることを記念して
平成17年3月8日 松志保子助産師顕彰会建立 』
村松志保子の父 玄庵は沼田藩の御殿医 村松家の3代目です。母 和歌子は沼田藩家老中村官兵衛の長女です。志保子は安政3年(1856)に沼田藩の江戸藩邸(港区)で、この両親の長女として生まれました。
幼い頃から、孔孟(孔子と孟子)の書を読む聡明な子であった志保子は、6歳の時、藩主土岐頼知(ときよりおき/*1)のお城に上がりました。志保子は万千夫人に寵愛され学問にはげみました。藩主頼知もまた、賢い志保子に一層学問を奨励しました。
志保子には兄が3人いましたが、いずれも早世していました。志保子は亡き兄たちに代わり、父の医業を継承する決心を固め、14歳の時、万千夫人の側を辞し、父のもとで漢方医学や鍼(はり)を学び女医になりました。志保子は結婚後も医術に励みます。
そんな中、津和野藩の軍医であった八杉利雄(*2)と結婚した妹の春子が、長男貞利(*3)を出産後、産褥熱(さんじょくねつ)で死亡してしまいした。当時は、女性にとって出産は命がけで、春子の様に母親も死亡することがあり、産婆(現在は助産師)の重要性を痛感した志保子は助産師も志しました。(この頃、志保子は身持ちが悪かった夫とは離婚しています)
当時は女性の医学校への入学は認められず、軍医であった義弟八杉利雄の協力を得て、英書の学習にも独学で励みました。
志保子は、父(沼田藩の御殿医)及び母の実家(沼田藩の家老)が、共にお世話になっていた沼田藩最後の藩主土岐頼知の、身体が弱かった妹の教育や、土岐家一族の病気看護に尽力しました。藩主はそのお礼として、所有していた墨田区横網の土地2000坪余りの内、約半分の1000坪の土地を志保子に与えました。
志保子はこの地に、明治14年(1881)25歳の時、「安生堂医院」を開設、日本初の女医の誕生です。次いで翌15年(1882)には、当時乱れていた女徳(女性の行うべき道徳)を是正すべく、女子教育のための女学校「淑女館」を設立し、女性の勉学を奨励し女性の地位向上を図りました。更に、明治19年(1886)「安生堂産婆学校」を設立、多くの助産師(産婆)育成に尽力しました。
当ホームページ連載「曳舟川つれづれ草」の「第2章 曳舟川周辺の歴史 15.日本初の女医 荻野吟子」を紹介しましたが、墨田区には「村松志保子と荻野吟子」の二人の日本初の女医がいたのです。
安生堂医院では、貧困妊婦のために無料の施療入院施設を設け、貧富を問わず多くの母子を平等に助成し、保健福祉の慈善活動を展開しました。明治24年(1891)には、この活動に対し北白川宮・小松宮両妃殿下、及びロシア皇帝ニコラス二世からの支援も得ています。
志保子は、道なかばの大正11年(1922)1月26日に65歳で亡くなりました。翌年発生した関東大震災により、全てを焼失したためか、その後、志保子の存在はすっかり忘れ去られていました。
近年になり墨田区の文化財調査員原島早智子氏により、「助産師の母 村松志保子」の存在が明らかになりました。
考文献・資料/
松志保子助産師顕彰会ホームページ、「明治の女医村松志保子と露文学の父八杉貞利」・「明治すみだの華を歌う武家屋敷」・「明治時代慈善の産医村松志保子」・「村松志保子の歩んだ道」以上原島早智子著
村松志保子の偉業を支えたゆかりの人々(説明板より)
*1 土岐頼知(1848-1911):沼田藩最後の藩主、廃藩置県により沼田県知事、維新後に代替地として横網に約2000坪の敷地を所有した。その半分の敷地を志保子に与えた。
*2 八杉利雄(1847-1883):志保子の妹春子の夫、津和野藩の一等軍医、東京陸軍病院時代、部下に森鴎外がいた。熊本陸軍病院院長。日本の医学界重鎮と密接な関係が出来るも、脳溢血で急死、享年37歳若すぎる死であった。
*3 八杉貞利(1876-1966):志保子の甥、父利雄・母春子(志保子の妹)。横網で誕生、生後10日目に母を亡くし。7歳で父を亡くした。帝国大学文科卒業後、東京外国語学校ロシア語科に学び、文部省よりロシア語研究留学。後に東京外国語学校大学教授、東京帝国大学・早稲田大学でも教鞭をとる。
山田寅次郎(1866-1957):志保子の母和香子の弟莞爾の息子、志保子の従姉弟、元沼田藩家老。志保子の「安生堂医院」開業のために薬学校で学ぶ。生涯志保子を見守った。
