第1章 曳舟川のはなし
8、曳舟川通りへ(二)

(3)東武の高架化・駅前に歩道橋

昭和42年(1967)、東武伊勢崎線(現スカイツリー線)の高架化工事が完成しました。曳舟通りはアンダーパス(掘り下げ式立体交差)になり、水戸街道と明治通りも共に踏切がなくなり、渋滞が大幅に緩和されました。

東武鉄道が高架になった翌年、昭和43年(1968)、曳舟駅前に区道として初めての歩道橋が設置されました。

しかし、近くに横断歩道があったことから、歩道橋への昇り降りが面倒なためか利用者は少なく、更に、昭和56年(1981)には横断歩道に信号機が設置され、歩道橋の利用者は一層少なくなりました。区民から歩道橋不要論が持ち上がり、区は撤去を計画、一方、警視庁は「歩行者安全のために必要」と反対、しばらくの間もめました。

写真5は、その時の新聞掲載記事です。最終的にこの歩道橋は撤去されました。

(4)曳舟川通りと命名 

昭和61年(1986) 墨田区は、区道に初めて正式な愛称を付ける決定をしました。その第一号が「曳舟川通り」でした。

この時、同時に「鐘ヶ淵通り・地蔵坂通り・桜橋通り・小梅通り・言問通り」など11の区道の正式愛称も決まりました。

序章「曳舟川上流の現状」の項で述べた通り、葛飾・足立区等、他の自治体では過去に上水・用水・曳舟川であったことを工夫して残しています。しかし、墨田区の「曳舟川通り」の路面には、その痕跡が全く有りません。通りの愛称にだけでも歴史ある「曳舟川」の名前が正式に残されたことは、郷土史に関心をもつ者として良かったことと思っています。

(5)曳舟地区の再開発

写真6は、昭和58年(1983)、嘗て鶴土手橋が架かっていた付近の様子です。

写真の右手中央の角地(現在ロイヤルホストがある場所)の建物は、当時の資生堂東京工場で、この年に埼玉県久喜市への工場移転が決まりました。

昭和62年(1987)資生堂工場跡地に曳舟文化センターが開館しました。

写真7は、曳舟再開発後の現在の様子を、写真6とほぼ同じ位置で撮影しました。

写真の右手前は、平成22年(2010)に曳舟再開発事業のコアとして開業した「イトーヨーカドー曳舟店」です。

平成27年(2015)には、再開発事業に合せて着工した京成押上線の高架化工事が完了、東武亀戸線の跨線橋から八広駅までの間に踏切が無くなりました。

平成29年(2017)には東武曳舟駅構内に「EQUIA」が開業しました。

この結果、東武・京成曳舟駅界隈は明るく便利な街並みに変貌しました。

 写真7を撮影して気付いたことは右側の再開発区域にのみ電柱がありません。地震対策の上からも、早期に電線類地中化(無電柱化)を進め、幹線道路として機能する曳舟川通りにして欲しいものです。

 次の二枚の写真8及び9は、新四ツ木橋を南下して最初の交差点にある「更正橋歩道橋」の上から曳舟川通りの南北両方向の現在の様子を撮影しました。

写真8は、新四ツ木橋方面を撮影しました。荒川の土手から、とうきょうスカイツリー駅北交差点までの約2.7㎞が曳舟川通りです。

葛飾区方面から区内への車の列が続いています。特にウイークデイの朝の通勤時間帯の渋滞は常態化しています。水戸街道のう回路として重要な役割を果たしている証であることが判ります。

 

写真9は、同じ更正橋歩道橋上から、反対方向の曳舟駅方面の景観です。真正面に墨田のランドマーク「東京スカイツリー」を望めます。

これから、曳舟川通りはどの様に進化していくのでしょうか。人にも優しい道路になると良いですね。