曳舟川通りの隣、50m北側に平行して、道幅が広く曳舟川通りと兄弟の様な「小梅通り」(写真1)があります。

しかしこの道幅は、言問通りとの交差点「小梅通り西」から、向島4丁目と東向島1丁目の町境(旧本所区と向島区の区境)の所までの全長750mの間だけなのです。その先は極端に細い道で、まるで行き止まりの様相を呈しています。そのために自動車の通行量は極めて少なく、静かな大通り(写真2)です。 何故この様な不思議な道路になったのでしょうか?

(1)小梅通りの建設
話は大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災後の復興事業計画に遡(さかのぼ)ります。
復興道路計画では、将来の車社会を視野に入れていたのでしょう、向島地区に計画していた国道6号に平行する、道幅が広い準幹線道路の建設を計画したのだと思います。
関東大震災が発生する前までは、曳舟川に沿った狭い土手道の四ツ木街道、通称「曳舟通り」が主要道路でした。震災以前は、曳舟川を埋め立てるという考えは無かった様で、曳舟通りに変わる幅広い小梅通り(当時は改正道路と称していた)が復興事業で建設されました。
図1は大正15年(1926)、関東大震災3年後の「向島」地図です(大日本帝国陸地測量部発行)。復興建設工事が進行中です。

・国道放射6号は三つ目通りを延長して、現在の向島4丁目と東向島1丁目の町境(旧本所区と向島区の区境)、秋葉神社(当時の社殿は南向きでした)裏まで開通しています。
・小梅通り・言問通り・桜橋通りは共に工事中のためか、記されていません。
・現在の向島1~3丁目の地域も、まだ区画整理が完了せず、地図には斜めの道や曲りくねった細い旧道のまま記されています。
・言問橋も完成していないので「竹屋の渡し」や「今戸の渡し」の運行が記されています。
・旧水戸徳川邸敷地が三つ目通りにより分断され、通りを挟んで両側が区画整理されています。
図2は、昭和5年(1930) 震災7年後の「向島」地図です(内務省発行)。

・向島1~3丁目の区画整理は終え、「小梅通り」も旧本所区内に完成しています。
・言問橋は昭和3年(1928)に完成し、竹屋・今戸の両渡しは廃止されました。
・小梅通りと共に、言問通り・桜橋通り(曳舟川まで)も完成しました。
・国道6号は、同時に着工していた明治通りまで完成しています。
(2)延長工事は中止
昭和12年(1937)に日中戦争が、続いて昭和16年(1941)に太平洋戦争が始まり、「小梅通り」の延長工事は中断してしまいます。
戦後になり、昭和26年(1951)に東京都議会は水質汚濁が進んでいた曳舟川の埋め立てを採択、昭和29年(1954)には、都が廃止を告示しました。
図3は、昭和33年(1958)の「向島」地図です(国土地理院発行)。
・国道6号には、昭和6年(1931)に開通した都電30番線が、昭和25年(1950)に明治通りまで(寺島広小路~須田町)延長されました。しかし、その後の日本経済発展と共にモータリゼーションが進み、都電は昭和44年(1969)年に廃止されました。

以上が「小梅通りの謎」の真相です。
因みに、「小梅通り」の愛称は、昭和61年(1986)に、曳舟川通り・桜橋通り・鐘ヶ淵通りはじめ11の区道と共に決まりました。