第2章 曳舟川周辺の歴史<続>
26、旧向島請地町界隈 戦前の様子(1)

田中 稔さんのお話から

 私は、元押上2丁目町会の町会長をされていた故田中稔さんから、旧向島請地町(現押上・向島)界隈の戦前のお話しを伺いました。田中さんは昭和6年(1931)生れで、昭和8年(1933)2歳の時に押上2丁目の現在地に転居されました。田中さんから伺った押上・向島界隈の様子と、当時の地図からも判ることを併せて以下に紹介させていただきます。
 

 田中さんのお父さんは明治32年(1899)に、現在の北十間川(きたじっけんがわ)に架かる京成橋の上に当たる場所で生まれそうです。これを人に話すと「えっ、本当!」と驚かれるそうです。
 図1は明治42年(1909)、田中さんのお父さんが生まれた10年後に発行した、日本帝国測量部の地図です。北十間川は、確かに京成橋あたりから東武橋先の横川までの間が埋め立てられており、そこは黒く街並みを形成していたことが判ります。

 図中には明治35年(1902)に開通した東武鉄道が記されています。当初は亀戸線が東武本線でした。レールは曳舟駅から現在の「東京スカイツリー駅」の位置まで敷設されましたが、図には終点に駅名が無く、「貨物積載所」と記されています。曳舟駅からこの間までは貨物専用路線でした。
 図2は、大正12年(1923)に発生した関東大震災前の大正6年(1917)に、同じ日本帝国測量部が発行した地図です。北十間川は、明治42年以降に再び開削工事が行われ源森川と繋がりました。川には押上橋が架けられています。開削工事に合せて、田中さんの家は、この押上橋の際に移転したそうです。

 地図には「貨物積載所」と記されていた場所は、終点の「浅草駅」(後に業平橋駅/現在の東京スカイツリー駅)になりました。また、大正元年(1912)に京成押上線が開通し、押上駅が記されています。この頃には、まだ京成橋が架かっていなかったようです。
 浅草駅構内には貨物の引込み線が増えました。そして、引込線に沿って北十間川から「貨物船引込み専用の堀」が設けられています。現在の東京スカイツリー及びソラマチの位置にあたります。当時の貨物輸送は、鉄道と河川を利用した船便が活躍していました。

東京は市電(後に都電)が大活躍

 業平橋から北十間川に平行して、道幅の広い現在の浅草通りが完成されています。浅草通りには大正2年に押上橋~業平橋間が開業した市電(当時は東京都ではなく東京市)が記されています。押上界隈は、このわずか十数年の間に急速な都市化が進んでいました。
 市電は、大正12年(1923)7月に門前仲町~月島間が開通し、「23番の市電/柳島~月島間」が全線開通しました(後に福神橋まで延長)。
 因みに、関東大震災後に完成した水戸街道には、本所吾妻橋~向島須崎町(秋葉神社裏)間が昭和6年に開通し、「30番の市電/向島須崎町~須田町(神田)間」が全線開通しました(後に寺島広小路まで延長)。市電は戦前戦後を通して東京市内の公共交通機関として大活躍しました。

昭和18年(1843)に「東京府東京市」は「東京都」になり、市電も都電となりました。

小学校を国民学校と変更

 昭和6年(1931)生まれの田中さんは、戦前、牛島小学校に入学、途中で校名が牛島国民学校(図2/*1 現在の本所高校の位置)に変わり昭和18年(1943)に卒業しました。牛島小校は本所地区で最も早く開校した小学校の一つでした。因みに、明治44年(1911)生れの私の父も、牛島小学校の卒業生でした。
 田中さんのクラス担任は白石豊先生という方で、先生のお住まいは、学校の近くの新しい近代的な「同潤会中之郷アパート(*2)」でした。
 牛島国民学校は戦後になって、昭和21年(1946)廃校になました。白石先生は、昭和12年(1937)年に開校した言問小学校へ転任されたようです。偶然にも、私が昭和23年(1948)4月に言問小学校に入学した時、白石豊先生は隣のクラス担任でした。
 牛島国民学校が廃校になった校舎には、昭和21年(1946)5月に都立本所高等女学校が移転してきました。同校は昭和25年(1950)に都立本所高等学校と改称され、現在に至っています。

東京大空襲で燃えたご神木

 昭和20年(1945)3月の東京大空襲の時、中学2年生だった田中さんは、飛木稲荷神社の有名な「燃えたご神木」を目撃していました。以下、田中さんのお話です。

『飛木稲荷神社前の道と旧古川を埋め立てて出来た細い道(ホンダの脇の道、旧本所区と向島区の境)の間の一帯は、「建物疎開(*3)」により広い空き地になっていました。深夜の東京大空襲の時、田中さんは町会の人たちと共に、ここに避難しました。神社の社殿や神楽殿が焼失し、ご神木の大イチョウは炎に包まれましたが延焼をくい止めました。鎮火後、今度は折からの強い北風により、火の手が隅田川の方から燃え広がり、空き地の南西側の本所一帯を焼け尽しました。しかし、この空き地に避難した町会の人たちは、ほぼ全員が助かりました。イチョウは黒焦げになったけれど、根は生きていたのでしょう。戦争が終わった後、再び芽を吹き甦ったのです。』

 このことは、令和2年(2020)のNHK特集「東京大空襲75年」の中で、田中さんが取材を受け、同年3月11日に放映されました。その後、「焼けたイチョウのご神木」について、日本経済新聞の取材も受け、同年7月12日発行の日本経済新聞に紹介されました。写真はその時に掲載された飛木稲荷神社境内の「青々と茂った燃えたご神木のイチョウ」と田中さんです。

〈注〉
*1 昭和16年(1941)の国民学校令公布から昭和22年(1947)までの我が国の初等学校(小学校)の名称で、太平洋戦争への総力戦に対応しての教育を目指しました。戦後になって、再び小学校の名称に戻しました。
*2 同潤会中之郷アパート(現在の押上2丁目12)は、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災後に復興事業で建てられた日本初の鉄筋コンクリート造りの近代的なアパートです。老朽化により解体、平成元年(1989)に共生社会推進センター(前女性センター)が入所しているマンションの「セトル中之郷」に建替えられました。
*3 建物疎開とは、空襲で火災になった時の延焼を防ぐために、密集した建物を強制的に解体して空き地を作ったことを言います。

 田中さんは、関東大震災後の復興期、及び東京大空襲に見舞われた以後の復興期を過ごした郷土史の生き証人のお一人です。貴重なお話を聞かせて頂きました。